2014年08月19日

書評『猟師の肉は腐らない』

『猟師の肉は腐らない』 小泉武夫 著

おもしろかった。お奨めの本です。

日本は、素晴らしい文化を持っていたのに、明治以降、捨ててしまって、劣悪な欧米の文化?をまねてしまった。日本人は、知恵を失い文化を失いバカになり野蛮になり、、、。

犬と人との関係。自然と人、野生動物と人。

虫を食べる、捕鯨、環境にまで話は及ぶ。

何と言っても、著者の専門である食品、とくに発酵食品と酒は、読みごたえがある。

虫は世界中で食べられていた。日本でもよく食べられていた。そして栄養もあり美味であり、どこにでもいるのに、なぜか、日本では食べなくなってしまった。
人間が、人間になる前からずーっと食べ続けてきた昆虫を、気持ち悪がって食べなくなってしまった理由は何だろう。

なぜ人は虫を食べなくなってしまったのか。
見た目が近いもので、カニやエビは、好きですよね。タコもイカも食べますね。
なぜ、虫だけは食べなくなってしまったのだろう。不思議。
たぶん、牛やイノシシを食べるよりもはるか以前から虫を食べ続けていたはずなのにね。

著者によると、カブトムシの蛹を焼火であぶったものが、一番うまいそうです。
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2014年08月13日

洗脳 Toshi

『洗脳』Toshi 著 講談社

読みごたえのある一冊でした。
読みやすいし、最後にトシさんが、脱会でき、希望を持てるところで終わっているるのが良い。

読んでいて、金の亡者が出てくるたびに、現代の宗教家や政治家の顔が浮かんだ。
現代の世界では、いや、昔からかもしれないが、宗教家と政治家は、金の亡者ばかりであるし、それを悪いことだと思っていないのである。まったく暗黒時代。

多くの宗教のやっていることも、洗脳と言えるようなことをやっている。おみくじ、厄除け、免罪符、お守り。祈祷。人は、ひとつの世界観を持って、その中で生きていくのであり、その世界観は、文化とか、時代の価値観とか、宗教とか、によって提供されるのであるから、洗脳と宗教は同じことなのであるが。

宗教家が、金や性欲について厳しい戒律を設けるのも、その甘い汁にだれでも目がくらんでしまうという自覚があるからであろう。だから、それらの戒律をなくしてしまった日本の仏教に、まともな僧侶が少ないのも当然なのである。

日本にまともな僧侶が少ないから、エセ宗教家が多くなってしまったのではないか。
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2014年04月15日

中村うさぎ 凄い

中村うさぎ氏の、著作をたくさん読んでいる。
アメリカにいて、日本語の本を読めなかった不自由さから、その反動で、むさぼるように読んでいる。
いやー、読みたい本が、どんどん読めることは、こんなにもしあわせなことなのかー。幸せ。

で、何を読んでいるかというと、中村うさぎかよ!、と思わないでください。
これが、深いのである。

たとえば、『愚者の道』p,132
 「 誰に教わった覚えもないのに、「自己実現」の病は、深く彼女の心に根を降ろしていた。言うまでもなく、その土壌は「ナルシシズム」であったが、それが「自己実現願望」や「自己顕示欲」というグロテスクな果実を育てて愚者の魂の枝に重くぶら下がるようになるには、環境というものが大きく関わっているに違いなかった。
 が、愚者の育った環境は、キリスト教的な世界観である。そこでは「神」という確固たる「承認者」が設定されているため、不特定多数の他者の承認など、本来、必要ないはずなのだ。」

 自己実現、自尊心などは、ナルシシズムが土壌であり、現代人の重い病の一つであるということを、いとも簡単にすんなりと言いぬけている。そして、自我の支えを神にしているものは、近代以前の西洋人に多い自我のあり方であるが、それで安定する。神を支えとしないたとえば日本人などは、神の代わりに世間、中村氏の言い方で「不特定多数の他者の承認」を自我の支えとする。要するに、神を自我の支えとしているものは、世間の支えは必要ない。これを、たった二行で、誰にでもわかる簡単なことばで表現している。
 この解りやすさは、岸田秀氏の著作に通じる。人間の心の綾をこんなにも解りやすく的確に説明する文章が書けるのは、岸田と中村ぐらいである。
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2012年12月01日

アラブの春の正体

『 「アラブの春の」正体 』 重信メイ著 を読んている。

革命は、うまくいかなかった。

3つの原因がある。

1革命後の国をけん引できる、強いリーダーがいなかった。

2革命後の国を、どのような国にしたいのか、国民の意思が一つにならなかった。
どのような国にしたいのか、方向が定まらなかった。

3長い間の、不正、汚職、などに慣れてしまった人々が多くいて、一気に浄化はできないのであるから、時間をかけて不正や汚職のできないシステムを構築して、確実に浄化を行わなければならなかったが、そのシステムを作ることができなかった。


今の日本に、そのまま当てはまる。
リーダーがいない。
改革への強い意志を持った政治家は、一人もいない。もし、石原や阿部、野田、小沢、嘉田、橋下などに、本当に改革の意思と実力があったら、すでに何かしていなければならない。何年も政治に関わっていて、何もしてこなかった人々である。

改革後の国の進むべき方向が定まらない。
電力に関してだけでも、いまだに二酸化炭素が温暖化に関係しているとか、原子力発電の方が経済的だとか、電力が足りないとか、バカなことが信じられている。これでは、脱原発という、当たり前のことさえ、国民の一致した意見とならない。

腐敗の根本を断ち切るシステムが議論されない。
今の政治の腐敗の原因と経済の停滞の原因は、官僚支配と、特別会計と、特殊法人にあるが、それを取り締まり、改善する道筋が、なにも議論されていない。これでは、改革にならない。

天下りこそ、諸悪の根本であるのに、だれも言及しない。
こんな選挙は、アラブの春と同じで、失敗に終わる。
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2012年11月29日

わたしの出会った子どもたち その2

灰谷健次郎氏の、『わたしの出会った子どもたち』である。

読み直すと、新たな発見がある。
もちろん、前回に読んだのは、中学生か、高校生の時だから、理解できていなかったことのほうが多いのは、当然である。

人生の辛酸を舐め、社会の底辺で生きる人々の優しさに触れて、「ひとのやさしさ」を知る。

アメリカ資本主義を嫌うのは、灰谷健次郎氏も同じ。
日本人は、近代化によって、本当の優しさを失ってしまった。
だから、金持ちになることを否定する。
灰谷氏は、当然受け取ってよい、兎の眼などの印税を拒否した経緯がある。
金持ちになることは、自分を支えてくれた人々に対する「裏切り」であると感じたのだと思う。

アメリカや、白人至上主義、欧米至上主義、資本主義万能主義を嫌う。


でも、実は、アメリカとは、白人とは、その昔、アフリカにおいて、白いことを理由に迫害された人々である。白人の有色人種に対する恨みは根深い。恵まれた土地で幸せに暮らす有色人種を妬み、植民地化し、虐殺し、奴隷にする白人の人類に対する敵意は凄ざましい。
差別され、奴隷にされた経験のあるのは、白人なのである。


単純な図式ではあるが、苦労をしたり、つらい経験を重ねた人が、より優しい人になるか、逆に酷い人になるかは、その人の器によるのかと思う。

苦労を知らずに、素直で優しい、純粋な人は多い。


苦労をして、つらい経験をして、それをどう自分の人格形成に生かすかは、そのひと自身の問題である。

障害を持ったり、知恵遅れといわれる人が、全員、優しい人というわけでもない。

また、他者に優しくできるかどうかというのも、その人が、他者に対してどういうイメージを持てるかにかかっている。
ある人に対して、助けてあげたいと思えるか、ざまあみろと思えるかは、単にイメージの問題である。


人は、助け合って生きるものである。この世界は素晴らしい。というイメージを持って生きていられたら、幸せは増える。

主義主張、利己、欲望に縛られて他人を苦しめることがどんなに愚かしいことかが、理解されたらよいのだが、狂った人が多すぎる。

灰谷健次郎の嫌ったアメリカも、もとは、差別され虐げられた人々の作った国なのである。

負の連鎖を断ち切らなければならない。
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2012年11月26日

やさしさということ

『 わたしの出会ったこどもたち 』 を読む。

中学高校生のころに読んだことがある。それ以来だ。
そのころに読んだ時の印象とまた違った感じがする。
受験戦争とか、積み木くずしとか、流行っていた時代だ。
私が小学生のころに、いじめが問題視され始めていた。

「やさしさ」という言葉が、嫌いだった。
弱い人間が、本当の優しさを理解できるとか、
ダメな教師が、子どものやさしさを踏みにじるとか、

わたしは、やさしさの解らない、ダメな人間の部類に入るなと、いつも思った。
灰谷健次郎の文章を読むたびに、自分は、やさしさのわからない人間だと思って、嫌になった。

まだ、遠藤周作の 『 おばかさん 』 の方が、気が休まる。

だいたい、自分の悪の部分に目を向けて、直視できる人なんて、そうはいない。
まして、灰谷健次郎のように、私小説のように、文章にして、公にできる人もいない。
だれでも、自分の弱さや、悪い面から目を背けて、善人ぶって生きていくしかないのである。
だからか、世の悪事には、カンカンになって怒る、自分の隠しておきたい汚い面を見せ付けられたように感じるからだろう。それが人間だ。

わたしは、子どもの気持ちは解らない。
わたしは、やさしくない人間である。
わたしは、汚い人間である。
わたしは、卑怯な人間である。
ということが、この本を読んでよく解った。


やさしさとかいうことより、もっと深いところの、人と人とが、理解しあうというところの、何かが、問題のように思う。
ちょっとした挨拶でも、問題になる。心が通じるかどうか。それを左右する何かが、問題のような気がする。

心が入ってない人の善行は、どこかわざとらしいし、いやらしい。
それでも、自分の愚かさを感じつつ、何とかしようともがいている人のそれは、同情の余地がある。
自分が善人だと疑っていない人間の、自己愛による行動や発言は、虫唾が走る。そういう人は、利己的なことしかしないが。

『 太陽の子 』 の中で、人の心は、人の心で治す、というようなことを言っていたと思う。
心が通い合う、ということが、「人間」なのであろう。これが人間を人間たらしめる。これができなければ、人は、心でさえ、形成することができない。木村敏が言うように。

映画、「命のスープ」 辰巳芳子 を観てきたが、
「人と人との間に、愛がある。」と言っていたが、そういうことだと思う。


やさしさという言葉に抵抗を感じる。
いま、やさしさを問う以前に、心と心が通じ合うことが、問題になるような時代だ。

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2012年11月25日

雪の詩

『 星の王子様 』 の話から、子供の頃に読んだ本の話になって、灰谷健次郎を思い出した。そして印象に残っている詩が、なかなか思い出せなかった。たしか、

街に雪が降り積もっていきます。
みんなの家の屋根に、均しく積もっていきます。
しんしんと積もっていく、その下で、
みんな、すやすや眠っています。

みたいな詩だと思っていたが、なかなか思い出せない。昔に読んだ本は、借りた本だったか、兄弟の本だったか、灰谷健次郎の本は、今手元に一冊も無い。図書館に行き、片っ端から灰谷健次郎の著作をぱらぱらと眺めていた。

『 わたしの出合った子どもたち 』 に、それはあった。
『 山びこ学校 』 という本が出典だということが解った。


          石井敏雄
雪がコンコン降る。
人間は
その下で暮しているのです。

( 『山びこ学校』無着成恭編 岩波文庫 岩波書店 1995年7月 )

人が静かに、確かに生きている感じがする。雪


今の世の中を見て、なんでこんなにも、ぐちゃぐちゃで、欲にまみれ、苦しめ合う世の中になってしまったのかと思うからか、この詩が、頭から離れない。

『山びこ学校』の序に、

「いつも力を合わせて行こう。
 かげでこそこそしないで行こう。
 いいことを進んで実行しよう。
 働くことがいちばんすきになろう。
 なんでも、なぜ?と考える人になろう。
 いつでも、もっといい方法がないか、探そう。」

とある。無着成恭が、六波羅蜜を現代風に解釈したものだろう。
小学生に解るように言い換えられている。
これはすばらしい。こんなにも解りやすく六波羅蜜を説くなんて。
ひろさちやも永六輔も、思いつかない。

この六波羅蜜を、今の、政治家、公務員、企業の重役に捧げる。晴れ
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2012年10月10日

野村克也著 プロ野球重大事件

私は、時々、図書館や本屋さんに行って、あてもなく本を見て、気になった本を借りて買って読む。

思いがけずに、面白い本に出合えることがある。


『 プロ野球重大事件 』野村克也著 を読む。

既に4版を重ねているから、有名で売れている本なのであろうから、いまさら私がレビューのようなことを書いても陳腐かもしれない。

監督には、4つの敵がある。

選手、ファン、オーナー、メディア。

言葉が大切。言葉はコミュニケーションの一番の手段だ。

最終的には、リーダーも一流選手も、人格がものを言う。


2007年の日本シリーズ、山井大介を交代して、岩瀬をリリーフ。
野村は、初め、私なら交代させない、情が優先すると言っていたが、この本では、落合が正しかったと論じる。私も、落合が正しかったと思う。テリー伊藤も、落合の判断が正しいと言う。
この交代こそ、プロ野球なのである。こんなにも緊迫した、記憶に残る一瞬があるだろうか。
以前の記事
http://blogs.dion.ne.jp/kappappa/archives/9433635.html


そのほか、かなりヤバイ暴露ネタもある。
この本を読まずして、日本プロ野球は語れない。野球


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2012年07月13日

風が吹くとき 30年前の本

政府が本当のことを報道しない。
政府が責任を追及しない。

何も知らされない国民は、死因さえ知らないまま、自分を殺した者は誰なのかさえ知らないまま死んでゆく。
前の戦争でも、同じようなことでした。国は同じことを繰り返している。

核戦争の危機はまだ続いていますが、原発でこんなことになるとは思ってもいませんでした。

『 風が吹くとき 』 は、30年前の本。
当時、話題になったので、あらすじだけは知っていた。
あらためて、読んでみようと思う。


以前に紹介した動画を再度はります。

ドイツZDF フクシマのうそ 投稿者 sievert311


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2012年06月03日

輪廻と仏教

世間では、仏教は輪廻を説くと思い込まれている。

海外でも、輪廻思想を仏教が説くと思い込まれて、キリスト教の神を信じられなくなった人が仏教に飛びつくという、そんな人もいる。


私は、こう考える。

仏教は智慧の宗教と言われるように、よくよく考えること、静かに思いめぐらすこと、で宗教的な救いや、正しい認識を得ようとする宗教である。

仏典によく、「輪廻からの解脱」というのが説かれるが、苦行をしたり、心を清めたりすると解脱できるというのは、ジャイナ教やヒンドゥー教である。

仏教の説く「輪廻からの解脱」の本当の意味は、

「輪廻などというものは無いということを正しく知って、そんなことに囚われた生活をすてて自由になりなさい、解脱しなさい。」という意味である。

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もちろん、欲におぼれ悪事を働き人を苦しめていて、罪の意識の無い人も多いので、そんなことをしていると死んだあとに地獄に落ちるぞというのは、効果的です。
自分たちを超えた存在が、善悪を律していて、いつも見ているという意識が必要であるのに、それが崩壊してしまい、世界中が無法地帯になってしまったのが現代です。
 特に日本は酷いです。神も仏もあったもんじゃない。
 日本人の正義を担える概念が必要なのでしょう。
 日本人は、軽薄で、薄汚くなってしまった。
 
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2012年05月28日

仏教の思想における輪廻について

以前、中尾公哉氏より、輪廻についてご質問を頂きました。

その記事「輪廻と仏教」
http://blogs.dion.ne.jp/kappappa/archives/9536607.html


そのご質問にお答えします。

まず、私の個人の思い込みよりも、一般論を述べます。

方便としてでなく、学問レベルで「仏教は輪廻を説く」と解釈する学者は、津田真一先生がいます。
仏教は輪廻を説いたか説かなかったか、学会レベルでも決着は付いていません。
文献学や、演繹方法では、限界があるのです。

輪廻を肯定するか否定するかは、その輪廻の主体となる「霊魂」のようなものを認めるか認めないかという問題であり、無我、空、縁起をどう解釈するかという問題に直結します。

『スッタ・ニパータ』ですが、成立史から釈尊の金言が含まれている可能性があると憶測できるというレベルの話で、そのお経のすべてが釈尊の教説であるという考えは無理があります。

宇井白寿、木村泰賢、和辻哲郎、あたりから読み始め、水野弘元、中村元、平川彰、そして、

袴谷憲昭、松本史朗、津田真一、そして山口瑞鳳と読み進められるとよいと思います。

私は、まったく山口瑞鳳先生の説を信じております。
『評説 インド仏教哲学史』を読んで、私は完結したと安心しております。
この本は、お勧めです。
この本を読んで正確に理解できるようでしたら、他の仏教書なんて読まなくてよいでしょう。

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2011年09月17日

大人にしてあげた小さなお話 岸田今日子

『大人にしてあげた小さなお話』 岸田今日子著 大和書房 


私も、「小さな女の子」が好きです。

私はリンゴの花の匂いを知りませんが、本から甘酸っぱい香りがしまが、これがリンゴの花の匂いなのだと勝手に思っています。そんな粋な計らいをするひと。


まあ、「ミッシェル」です、これは、数十年前に読んだ時から覚えているお話です。
妻を岸田今日子さんが演じて、舞台でやってほしかった。いや、その光景が目前に浮かびます。

その、微妙な心理を文章で表現できる岸田今日子さんの筆の力もすごいです。
「文学」って、これなんですね。
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2011年08月06日

うさぎごころ その2

うさぎごころ、

私は、うさぎは黒豹に食べられてしまうことも解らずに、信じきって黒豹の巣穴の中に入っていったのだと解釈していました。そして食べられてしまうのだけれど、それさえ、至福と感じるような、。

しかし、ある女性の解釈は、
「食べられるなんてことはない。その黒豹さえも手玉にとって、うまいことやると思う。」というような解釈。

女心、恐るべし。

しかし、岸田今日子さんは、もっとグロテスクで官能的で、奇想天外な結末を想定していたのかもしれない。
岸田今日子ワールドを覗いてみたい気分に駆られる。

澁澤龍彦を、ふと、思い出した。似たような世界だと感じた。
ああ、東寺の大威徳明王と水牛の醸し出す世界も、同じだ。
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2011年07月23日

うさぎごころ

kyouko-kisida.JPG

「うさぎごころ」は、『子供にしてあげなかったお話』。

『大人にしてあげた小さなお話』を続けて読む。

それから、『二つの月の記憶』。

今日、古本屋から『妄想の森』が届く。
むかし読んだのは、文庫本だったような気がする。
10年以上経って、いま、読み返している。

なぜ、「うさぎごころ」かって?


次は、「大人にしてあげた小さなお話」をかしてあげるよ。
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2010年09月04日

ものぐさ精神分析を読む 21 日本人論

岸田秀氏は、
『 嘘だだらけのヨーロッパ製世界史 』 新書館 2007年

や、そのほかの対談集で、白人はアフリカから追い出されて、地中海を渡った人たちで、さらにエジプトから逃れて出てきた人がユダヤ人で、さらにそのヨーロッパからも迫害されて新世界を求めたのが、アメリカなどであると言っている。きわどい論述なので、詳しくは元の著書をご覧ください。

迫害されて、一神教を頼りに造られた民族や国家ということになる。

で、私は、日本人について、適用してみた。
もちろん、岸田秀氏や、そのほかの学者先生たちが、色々と述べていることでもあるが、わたしは、ちょっと違うことを考えた。

 迫害されてルサンチマンたっぷりで新天地を求めた欧米人とはちがって、日本人は、朝鮮半島での戦いには敗れたものの、なにか、

「戦うことはあまり好きではない、おとなしい人たちが、戦いをのがれて、自らすすんで日本列島にやってきたのではないか。」と思うのです。

そして、白人が豊かなアフリカを追い出されて、寒くて土地が痩せている北に移住したのとは違って、日本列島は、木の実もあるし、稲作もできるし、四季折々の自然は豊かで、しかも海に囲まれているので、冬の寒さも夏の暑さも厳しくないし、魚介類は豊富である。

 戦いに敗れてしょうがないし、迫害されてしょうがなし新天地を求めた欧米人と違って、日本人は、争うのが嫌で、住み良い島に移り住んだということではないだろうか。原住民とのいざこざはあったのかもしれないが、私には解らない。もしかしたら、原住民との争いはほとんど無く、平和に共存できたのではないかと思っている。

日本の歴史には、好戦的な人もいたし、先の戦争の時のように、戦いに狂っていた時期もあったが、欧米人と比べて、日本人はおとなしいと思う、その理由は以上のような理由ではないかと思っている。
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ものぐさ精神分析を読む 20 ニート

日本にニートといわれる人が増えた理由を考えてみたい。

でも私は、ニートが増えても、問題ではないと思っている。
 職に就かず、ぶらぶらしている人は、昔から、みんなから厄介がられながらも、結構いたものだ。
 インドなんかは、畑を耕さなくても、たくさん収穫ができるので、いい年の男達が昼間から、甘いチャイを飲みながら、ボケーっとしている。
 明日食う米が無い、米国が攻めてきた、ということになれば、ニートも立ち上がるのだろう。

思いつくままに

教育の失敗
「大人になるということは、この資本主義社会の生産者として適応できるということである」という戦後教育と日本社会。生産力としての近代的自我を確立するのが、立派な大人であると。そういう教育に疑問を抱く。
 受験のための勉強と、出世のための学歴とは、共に生産者としての近代的自我には貢献するが、その近代的自我というのが、明治維新後の日本人が考えついただけの妄想でしかないのであり、それを妄想であると見抜いてしまった勘の良い人間は、ばかばかしくて、文部省が決めた勉強なんてやってられないのである。あるいは、何かちがう、何かがかけていると感じてしまった人は、親や世間に学校へ行くことを勧められるほどに、虚構さが白々しく感じられてしまうのだろう。馬鹿馬鹿しいけれど、そういう時代だからしょうがない、受験もするし、会社に入って我慢もするさという人は、ニートにはならない。「良い子」だ。さぞかし両親も自慢の子であろう。

虚構の街
日本の街は、北海道から沖縄まで、津々浦々、伝統文化がなくなってしまった。都会と言っても、商店やビルが立ち並ぶだけで、文化を成熟させるものは無い。ただただ欲望を煽り、満たし、また煽られるだけの都会。地方の人が都会に憧れるというのが理解できない。

日本的文化の喪失
日本人が安心して身を任せられる世界がなくなってしまった。

昔は、農村で、毎年同じことを繰り返し、アジア的な時間が流れていた。エスニックな世界か広がっていた。日本人は、先祖と多くの神々に囲まれ、安心して暮らすことができた。

そして、若者が、人生をかけられる世界がなくなってしまった。日本という社会が虚構になってしまった。歴史も文化も根こそぎにされてしまって、近代的自我というものを強要されて、宙に浮いてしまった。
 200年しかアメリカは歴史がないというが、日本は、100年以下である。これが今の若者の思いかもしれない。

戦後教育で、狂った大人たちに教育された今の若者は、もう、人間とは何なのかさえ虚ろになっている。
 見かけ上は適応している近代的自我を確立した人たちも、根なし草である。そういう人が、官僚になって、社長になって、重役になって、さらに日本を欲望主義に陥れている。


ただ、こういう時代は、現実打開のために、おかしな宗教や主義が流行ることがあるので、気をつけなければならない。

自我のあり方も、
空間も、
時間の流れも、 日本人独特の世界があったのに、
それを捨ててしまったから、薄っぺらい社会になってしまい、生きる意欲さえわかないのである。
 そして、馬鹿馬鹿しい欲望主義にも興味が湧かないまともな人は、ニートになる。
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2010年08月28日

ものぐさ精神分析 18の2 大乗仏教の起源

長くなったので、分割。

インドにも、多神教の土着の信仰があった。
仏教は、それらを否定する形で定着した。
しかし、それまでの土着の神々を完全に駆逐するようなことはしなかった。この点は、他の一神教と違うところだ。日本でも、本地垂迹説で、ごまかして、両立を図る。

本当に仏教とは、面白い宗教だ。

しかし、それまでの宗教を低く見ることは、否定することとあまり変わらない。世俗を否定して仏教の法が優れていると主張する点も同じである。

世俗を否定し、神々を否定し、自分たちの法が唯一正しいとする点は、一神教と変わらない。

ただ、他の一神教と違う点は、「 押し付けがましくない 」ということか。

自分たちが正しいとしても、それを押し付けたところで、その人が幸せになれるという保障はない。聞きたくないという人に、無理に聞かせるほど、骨の折れることはないし、所詮、人のやることなんて程度の差こそあれ、空虚なものでしかない。という諦めがあったからか。

ますます仏教というものは、不思議だ。

こんな、どうでもいい感じで、世界が諦めることを知ったら、戦争は無くなるのだろうけれど、そう考えることさえ、押し付けとなるから争いの火種になる。
 人は、何も心の支えになるものが無いと不安で生きてはいけない。だから宗教が必要だし、それで争いも起きてしまう。

でも、欲望に焼かれている世界を見て、少しでも仏教に耳を傾けることができたら、、、、。と思わずにはいられない。

釈尊は、弟子たちを連れて、街を一望できる小高い丘に上がった。そして、

「見よ、世界は煩悩の火で焼かれている。」と言いました。
出典は失念


神秘体験は仏教ではないということについて。
仏教とは、非相なるものを、非相であると見ること。空なるものを空であると見る見方に習熟すること。

たとえば、ヨーガによって何かとの一体感とか、万能感とか、そういう体験や感覚は、退行的自我の体験であって、仏教ではない。自我が退行したまでで、それまでと同じ様にあり続けていることには変わりない。アルコールを飲んで、思考が麻痺しているのと同じである。釈尊は、そんなヨーガに入ったときだけの恍惚感は、意味がないとして退けている。釈尊は、特別な状態における万能感や一体感は否定している。一体感は、乳幼児が感じる自我の初期状態である。それが仏教の目的なら、修行などしないで催眠術にかかったほうが簡単だろう。特別な宗教体験は、仏教ではないと知らなければならない。もちろん、宗教体験が、人格を変える事はあるが、たまたまそれがきっかけであっただけであろう。出世や退職、家族との死別や、結婚や出産などがきっかけとなって人格が変わることもあり、人格が変わるきっかけには宗教体験が特別なのではない。まして、仏教の正しい理解には何もつながらない。
 仏教は、縁起を正しく理解すること、そして、それに習熟すること。これ以外に仏教はない。
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ものぐさ精神分析を読む 18 大乗仏教の起源

ものぐさ精神分析と書こうとすると、ぐうたら生活入門と書きそうになってしまう。

それは、遠藤周作。

一神教と多神教の話しは、かなり吟味されているが、

仏教

については、あるときは、多神教、あるときは、無神教、あるときは、無我の教えなどと述べられて、深く考察されていない。

前の 「 ものぐさ精神分析を読む 17 」で、無我と超越的なものへの憧れということを書いたが、まあ、これが岸田秀氏の仏教理解として了解することができるし、私もこの仏教理解は正しいと思う。

それにしても、仏教は、不思議な宗教なので、仏教の歴史を考えてみたい。

たとえば、大乗仏教の発生と成立に関してでさえ、いまだに議論が絶えない。

岸田理論を当てはめると、
仏教は、世俗の否定ということで成立していた。
執着を離れるために修行をするのではなく、世俗が幻想であると見抜けた人々が、世俗を捨てて、集団になって生活していたということになる。釈尊のいた時代は、貨幣経済が発達して、それまでの道徳などが衰退して、さまざまな思想が雨後の竹の子のように発生した。多様な価値観と、伝統や文化を軽んじる風潮。
 ここで、釈尊は、伝統的な信仰と輪廻思想を復活させようとしたのだという見方もできる。
 私は逆に、一切は無自性であると主張して、世俗の一切を否定したと考えている。輪廻思想は、世俗の思想である。

個人的な、心理的なことに着目すると、仏教は、世俗で漠然と信じられている価値観、たとえば、金銭、性欲、食欲、名誉欲、所属欲、などなどの欲が、実は、幻想でしかないということを見抜いて、さらには、自我ということさえ、自分が人間であり、たとえば若くて寿命が有るとか、健康であるとか、四門出遊のたとえ話にあるような、人間の根本的な驕り、欲望までも、実体のないもの、うつろなものであると見抜いて、世俗を捨てて、出家する宗教だろう。
 ただ世俗を否定して出家するだけでは物足りない人々、世俗は否定したいが世俗を捨てきれない人々、要するに、インドの階級社会で虐げられていた底辺にいた人々が、全知全能なる神としての仏、救済の仏、信仰で救ってくれる仏、を考え出したのだろう。それが、大乗仏教となり、西洋的な一神教の要素を備えることになる。一神教のような不自然な神は、被差別者によって作られるという岸田理論が適用できると思いついたのである。
 ただあまり、大乗仏教はインドのヴァルナの底辺の被差別者が無理をして作り出したものであるというと、日本の僧侶たちや仏教学者は、怒りだすかもしれないな。
大乗の起源は、ストゥーパの周りに集まった人々が次第に大きくなったのが始まりとされる。これを別の角度から読むと、僧院に入れてもらえず、また直接出家者から説教を聴くことが許されない差別された人々ということも考えられる。インドではアウトカーストの人は、寺院に入れない。
 また、大乗経典に特有の、小乗をけなし自分たちの大乗が優れていると強調したり、小乗の出家者として有名な舎利子や目連をけちょんけちょんに貶したり、大乗を誹謗すると地獄に落ちて永遠に苦しむという主張など、一神教的要素として考えられないだろうか。
 さらに、大乗は本来の仏教の思想を取り戻したと主張されるが、それは、カーストを否定した釈尊の思想を取り戻す、虐げられた人々にこそ救いの手をさしのべる仏教という面が強調されたのではないか。

 こう見てくると、今まで解けなかったさまざまな疑問が、つじつまが合うように説明できそうである。



別の点で、出家修行者がいるのは、キリスト教と仏教だけである。ユダヤ教やイスラム教には、預言者はいても修行者はいない。ユダヤ教などは、世俗と聖なることが、分割されていない。イスラム教では、日常がそのまま宗教なのである。
 キリスト教と仏教は、世俗の生活と、信仰が切り離されているので、一般人は、日常は、宗教と関係ない生活が送れる。そして宗教行事や、決められた日時だけ宗教に従えばよいと言うことで済ませられる。あくまでも、信仰は、心の内面のことであるとされる。世俗と聖なるものが切り離されているから、聖なることだけに専念する人々が出てくるし、必要になる。それが出家者、聖職者である。必ずではないが、政教分離をすると、聖職者と言われる人が出現するということでもある。
 キリスト教の国である欧米と、仏教国の日本?が、宗教的ドグマに縛られることなく、近代化ができたのも、宗教は内面の問題だとして、経済活動と切り離すことができたということが大きいと考える。
 こう考えると、もしかしてキリストは、仏教思想を知っていのかもしれないと思ったりする。はたして。


それにしても、世捨て人のようなものが、フラフラしている世の中って、面白い。インドだからできたことか。日本にも定着しなかったし。インド以外の国で、本来の釈尊の生活を行っている国はない。タイやスリランカでも形骸化している。チベット仏教は、その意味では釈尊と完全に逆のことをしている。


宗教が原因で、戦争が絶えない。

信仰は、内面の心のことで、何を信じようと勝手であり、他人の信仰に口出ししてはいけない、ということで統一できたらよいのだけれど、その考えでさえ押し付けてはいけないのか。
 アショーカ王とビンビサーラ王の統治の仕方は、何かの参考になるかもしれない。
 どのようにインドで仏教は信仰されていたのか。
 イスラム教やユダヤ教、キリスト教の、いわゆる一神教がいなかったから、平和だったのかな。拝火教はどうだったのだろう。
 インドの信仰の歴史は、研究する価値があるかも。
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2010年08月19日

ものぐさ精神分析を読む 17 自我と宗教

岸田秀氏の仏教に対する見解を知りたければ、
『 仏教と精神分析 』 三枝充悳 岸田秀 共著 
という著書があるが、あまり役に立たない。
それよりも、八木誠一氏との対談 『 自我の行方 』 や、小滝透氏との対談の方がよっぽど役に立つ。

それはさておき、岸田氏の唯幻論は、仏教の唯識と関連があると昔から多くの人から指摘されていることである。
 しかし、唯識は、限界があり、中論に劣る。
すべてが幻想であると言ってしまうと、その言葉さえ幻想になってしまい、その主張さえ成立しなくなるという自己矛盾だ。その唯識の矛盾を回避するため、中論のツォンカパは、「言葉による言葉の否定」(四津谷孝道氏の御研究を参照されたし)というやり方でしか言い表すことができないとした。
 それでも、すべてが幻想であるとすると、その幻想を生み出す外界や心は何なのか、という疑問が残ってしまい、悟れたら真実の姿が理解できるという曲解が横行し、唯識は別名「瑜伽行唯識派」と云い、ヨーガによって真理を把握できると誤解されるようになった。神秘主義である。しかしこれは、仏教の六波羅蜜を完全に否定した曲解である(山口瑞鳳氏の御研究を参照されたし)。(ヨーガの宗教と利他行の矛盾については、津田真一の御研究を参照されたし)
 そして、竜樹の正説、すなわち釈尊の正説は、シャーンタラクシタ(寂護)が正確に継承したと見られる。
 それは、「縁起生」と山口瑞鳳氏によって名づけられた。認識のもとになる外界は、確かに存在するが、人間の知覚は、先験的な「今」を把握することはできずに、かならず、一瞬遅れて、ある一定の時間の長さ、経過した時間を、今現在だと認識しているに過ぎない。そして、正確に「今」を認識できないのであるから、空間や物質を正確に認識することはもはや不可能となる。何時何分何秒に、ある空間座標に、ある物質が存在するという仕方でしか定義できないのであるから、時間が正確に定義できない以上、空間も物質も定義できないことになる。要するに、人間は、時間を正確に把握できないし、時間を正確に把握できない以上、この世も、私という存在も、幻想でしかないということになる。
 ここまで論じることによって、すべては、幻想であるということが正確に述べることができ、自己矛盾を解消することができる。
 さらに誤解が多いのは、真実の姿があり、悟ったら真実の姿が理解できるという思い込みだ。人の感覚を離れて、人間に意味のある真実の姿などは存在しない。認識のもとになる外界は確かに存在するが、人間が人間の五感に制限されている以上、人間の五感を越えて認識することは不可能である。(このイリュージョンについては、日高敏隆氏の『動物と人間の世界認識』を参照されたし)だからこそ「先験的な「今」」と言うのである。
 さらにいえば、時間が流れているという感覚も、その字のごとく人間の脳が作り出した感覚に過ぎない。その他、性欲、食欲、自分が人間であるという自覚も、人間が作り出した幻想である。自我意識も文字どおりに「自我」という「意識」なのであり、意識はつくられた幻想である。

 人は、幻想を幻想であると認識することはできても、幻想を超えて、なんだか解らない空想された真実が見えるようになることは無いのである。それこそ見果てぬ夢、幻想であり、もし、私は真理を悟ったとかいう教祖様がいたら、ペテンであると知るべし。


まあ、そんなわけで、仏教の、特に「縁起生」と岸田氏の「唯幻論」は、私は、同じであると結論する。

ある学説とある学説、たとえば、心理学と仏教学とかを比較検討する場合に、「こんなところが似ている、ここが似ていない」とか、いくら論じても、無駄である。似てる似てないでは、話にならない。同じか、違うかしかないのである。そうでなければ、建設的な議論にならない。あるいは、仏教でも臨床心理学でも「実践」から生まれたものであるから、互いの理論を実践に適用して、そこから新たな発見があるという研究なら意味があるだろう。

仏教は、多神教なのか、一神教なのか、意見が分かれるところである。また、釈尊自身はどんな信仰を持っていたのか、興味津々であるし、最澄、空海、親鸞、道元、などなどを研究してみたい誘惑に駆られるが、その人がどういう信仰を持っていたかは、残された文献だけではどうにもならない。一神教か多神教かは、たいして重要ではないと思うようになった。というか、そう思うことにして諦めた。
 
また仏教の 「縁起思想」は、宗教なのかという疑問も残る。宗教の定義も曖昧であるし、縁起思想は、他の宗教と比べると独特である。
 自我の支えとしての宗教を考える場合にも、縁起思想は、自我の支えになるのか疑問である。



以上の、疑問を解消するような、今までの私の疑問をすべて答えてくれるような文章に出会ったので、ここに書きとめよう。

人間は自我というものをつくってしまったときに何かから切り離された。それは確かだと思うんです。そのときに、切り離されたもとのものを求める。超越的というのは自我を超えているという意味なんです。
 ただ、自我というものはつくりもので、まさに一時の幻想でしかない。幻想でしかない自我を本源的なものと考えて、その安定と快楽を求めて、自我を安定させるために、自我を超越したものにつなげる、そういうつなげ方は欺瞞ではないか。自我というものを温存して、それをよくするとか、楽にするとかいうのではなくて、自我を捨てる、または超えることで(ママ)何か超越的なものとつながりがある(ママ)のではないかと思うんですね。
 ただ、「捨てる」というと、大日本帝国のために命を捨てるという形もあるわけですが、そういう大日本帝国とかの具体的なもののために自我を捨てるというのは間違っていると思う。そういうのではなくて、もともと自我というつくりものを我々がつくったときに、我々は何かから切り離された、その何かを求めるということじゃないかと思うんです。その何かとは、我々人類の本能が壊れたときに我々が見失ったものかもしれません。だとしたら、もう取り戻せないかもしれません。

岸田秀著 『 唯幻論論 』 青土社 1997年 p,291

生命の流れというのは、まさに我々人間も地球上の生命の流れの中にいるわけですけれども、僕は、人間は本能が壊れた動物で、そのかわり自我をつくったということをよくいっているわけです。自我というのは、いわば生命の流れから外れた存在じゃないか。それが人間存在の根拠になっている。そこで人間は、基本的に生命の流れから外れているという疎外感がある。
 そこの疎外感を何とかして、生命の流れを全然失っているわけじゃないけれどもそこから疎外されていますから、生命の流れの中に戻りたいというか、それとつながりたいというか、つなげてくれるのが、聖なるものというか、宗教なんだと僕も考えているのです。無我ということが仏教の基本原理ですが、自我を捨てる、自我を超えることを悟りの境地としているわけで、そのような境地には到達できないかもしれませんが、無我とはまさに、生命の流れから外れた人間のそこへ戻りたい憧れを表しているのではないかと思います。

岸田秀著 『 日本人はどこへ行く 岸田秀対談集 』 青土社 2005年8月 p,220


また、蛇足ながら

すべては幻想であるというと、生きている価値が無いではないかという非難について。
答えて曰く、
価値が無いと生きていられないと思うことが、そもそも幻想なのである。自我の発達史を学ぶべし。

幻想であるとしても、ショーペンハウエルも言っているように、「知への欲求」は消えない、際限がないのではないか、その智慧さえ幻想なのか。
答えて曰く、
理性とか、合理とかいう概念は、もちろん西欧哲学の概念であり、幻想である。仏教の智慧も、幻想である。ただ、仏教の場合には、その「縁起生」を理解し、すべては「無自性」「非相」であると理解しそう見ることに習熟することが理想とされる。そこが仏教の智慧の終着点であろう。非相を体得することが、仏教の終着点である。「知への欲求」は、そこで消える。智慧の終着点を定めている仏教は、無限の理性崇拝でも、科学万能主義でもない。


最後に、肝心なことが抜けていた。

自我は、外に拠り所を必要とする。
真実の自己を求めるというのは、溺れる人が、自分の足にしがみついているのと同じ。そして本当の自分などという都合のよいものは無い。もちろん仏教は、真実の自己など肯定しない。なんと世間では曲解が横行していることか。

ありのままに、人間らしく、人の道を歩むのが自然であるという考えが一般的であるが、実は、すべては非相であるということの方が、「自然」なのである。「自我をつくったときに失われた自然」に心を馳せるのが、「非相の観法」である。これが仏教が宗教として成り立つ機能かと思う。そうすると、仏教は、一神教でも多神教でもないことになる。西洋の宗教の概念には当てはまらないな。
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2010年08月18日

ものぐさ精神分析を読む 16 敗者の美学

子供たちが、「 ごんぎつね 」という童話のアニメを観ていた。

そういえば、「フランダースの犬」がなぜ日本でこんなにも人気があるのか不可解だと言う外国人の意見を何かで聞いたことがあるのを、思い出した。


その二つの物語の共通点は、理解されずに、無抵抗のまま、善人が死んでいくこと。

これだ、とっさに思いついた。

「日本人は、アメリカに、コテンパにやっつけられて、外面的には卑屈にへつらい内面的には悔しがっている分裂した精神状態で、それを意識しないようにして、取り繕っている。この欺瞞が、日本の根本的な病理である。あらゆる日本社会の問題は、ここからきている。」岸田秀氏の見解を私が要約

そのような、岸田秀氏の、「 史的唯幻論 」で、解釈できるかと思いついた。

要するに、冷たい世間、理不尽に虐げるアメリカ。善人で心優しい主人公が、無抵抗のまま死んでしまう。おとなしく言いなりになっている日本を、その主人公に重ねて日本人は観ているのではないだろうか。
 本当は、戦争に負けたこちらにも、清く正しい言い分があるのだと。弱く美しい最後をとげたのは、日本人の側なのだと。アメリカは誤解している。そして真実の正義はこちらにあり、アメリカにも誰にも理解されないままなのだと。永遠に私たちの真心は理解されないままなのさって。

そんな日本人の無意識の叫びが、「フランダースの犬」や「ごんぎつね」を観るたびに、無意識のうちに心を満たし、共感してしまうのだろう。そして何度でも繰り返し観たくなる。
この理不尽さが、たまらない!

「フランダースの犬」犬と「ごんぎつね」猫以外に、他にももっとないかな。

清く正しい、心優しい主人公が、無慈悲に悪役に殺されてしまうだけの物語。 アメリカの映画だと、十字架に救われたり、賛美歌が奇跡を起こしたりして、主人公が救われてしまうのだけれどな。滅びの美学がもてはやされるのは、日本人の特徴であると言えないかな。

参考
『二十世紀を精神分析する』文春文庫 p,287
「アメリカの道義的威信の回復をめざす」
(『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著伊藤延司訳 アイネックス)書評

戦いには勝ったが、同義的には負けたアメリカ。それを隠蔽するための東京裁判。
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2010年08月13日

ものぐさ精神分析を読む 15 一神教と多神教

宗教は、大きく二つに分けられる。
一神教と多神教だ。『一神教 vs 多神教』を読んで。

仏教は、どちらだろう。

阿弥陀を信じるとか、大日如来とか、法華一乗とか、曼荼羅世界とか、いろいろあるので、どちらか一方にはならないと漠然と考えられそうであるが、そういう浅い話をしたいのではない。

そもそも、一神教か多神教かは、自我のあり方を決めているもので、その人がどういう文化の中で育ったかに左右される。育ての親の影響が大きい。成人してから、色々と思想を学び、改宗しても、外面は変えることができても、心の根幹は変えることはできない。変えるとしたら、一度、人格破壊をするほどのことをしないと変わらないだろう。

ヒンドゥー教は、一神教と多神教とどちらとも取れる。バラモン教も同じ様なものである。釈尊の生い立ちが問題になるが、今のネパールの辺りの共和制を布いていた王国であったらしい。釈尊が一神教的だったか多神教的だったかは、解らない。


釈尊の哲学から考える。
 無常、無我、苦、無自性、ということを理解しても、そのあと、一神教的に生きるか、多神教的に生きるか、どちらもありえる。
一神教
 無我を理解して、この世の一切を「無自性」と見て、絶対他者としての一神を自我のよりどころとすることもできる。
多神教
 無我を理解して、自然の中に埋没し、自然の一切を神として自我のよりどころとして生きることもできる。

釈尊は、無自性ということは、弟子たちに学ばせたけれども、それ以上には、一神教と多神教とのどちらかを強要することはなかったと、私は考える。
 どちらを選ぶかは、生まれ育った素質の問題であるし、変えようとして変えられるものではないし、一神教にも多神教にも利点と欠点があるのであるから、「空」を悟りつつ、悪い面を退け、良い面を生かして生活したらよいのだろう。それが無我的な生き方なのかもしれない。自我は必要悪であるとは、岸田秀氏の言葉である。

また、一神教にしても、多神教にしても、何を信じるにしても、人は、聖なるものにつながっているという思いを感じられていないと生きていけない生物らしい。だから、いくらこの世は虚しいと言いつつも、聖なるものをよりどころとして生きていくほかないようだ。

ちなみに、空海は、一神教であったと思う。冬の高野山を愛するなんて、わざと厳しい人を寄せ付けない環境に身をおいて瞑想したいなんて、沙漠の宗教、一神教的である。また、日本人離れした発想、大学を創るというのも、当時の日本の多神教的社会に同化していてはできない発想だろう。その他の細かなことも、一神教的である。
「いつの日にか、大日の光を見ん」
大日如来は、完全に理念の仏であり、唯一神の条件を備えている。
 これらを、唐に来ていたバラモンに直接、伝授されたと思う。また、空海の家系が、一神教的な信仰を持っていた可能性もある。恵果も一神教であり、その一神教を継承できる弟子が中国国内の弟子の中にはいなかったと考えられる。それほど、当時の中国、朝鮮、日本には、一神教を身に着けている人が少なかったのだろう。
http://blogs.dion.ne.jp/kappappa/archives/9603119.html

『 日本人の信仰心 』 磯部忠正 著
『 空海入門―弘仁のモダニスト 』 竹内信夫 著
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2010年08月12日

ものぐさ精神分析を読む14 黒いアテナと斎藤信治

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すっかり、岸田秀氏の本ばかり読んで、氏の考えにどっぷり浸かっている私である。

『 嘘だらけのヨーロッパ製 世界史 』岸田秀著

を読んで、あらためて、斎藤信治著 

『 沙漠的人間 』を見直した。

斎藤信治博士は、あの有名な木田元氏の師匠であり、日本の西洋哲学研究の第一人者である。

西洋哲学を研究するには、その源流の、エジプト、セム人の哲学から研究しなければならないと思い至り、その当時、みんなヨーロッパに憧れヨーロッパの言葉を学びヨーロッパに留学していた時に、一人、カイロに行き、アラビア語を学び、旧約新約聖書を読み直していた人物である。

 「アフリカが暗黒大陸などと言われていたけれども近い将来世界史の精神的自覚の過程のなかに取り入れられて重要な役割を果たすことになるだろう。」

と跋で述べている。『黒いアテナ』の半世紀以上前に、日本人がこの認識に至るのは、卓見である。

湯川博士も、独学だからこそ、中間子を発見できた。
 湯川秀樹博士が、西洋の研究者よりも一歩早く中間子を考え付いたのも、日本にいて、欧米の学閥や師匠の学説に縛られずに、自由に考えることができたからであろう。そういう意味で、斎藤信治博士も、欧米人が当時の作られた歴史観に縛られていたものが、博士には無く、自由に考察できたことが大きいだろう。

『 沙漠的人間 』 は、復刻版がアマゾンでも買えます。

しかし、二人とも、それ以降は、たいした業績が無いな。
優秀な弟子を育てたことは、すごいことではある。
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2010年08月10日

ものぐさ精神分析を読む 14 原爆その2

「なぜアメリカは原爆投下を謝罪しないのか」

『歴史を精神分析する』 岸田秀著 中公文庫 2007年
( 元は、『官僚病の起源』 新書館刊 1997年 )

岸田秀氏の見解  pp,89-90

先住民大虐殺の隠蔽と正当化が、アメリカの病気であることはこれまで何度も述べたが、たとえば、クリントン大統領が広島・長崎への原爆投下を謝罪するのを拒否したのもこの病気の症状なのである。原爆投下を謝罪することは、他民族を不必要に大量虐殺したことを認めることであり、それを認めればアメリカ先住民を不必要に大虐殺したことを認めざるを得なくなり、それを認めればアメリカ国家が不正の上に成り立っていることを認めざるを得なくなり、それを認めれば正義の国であるという幻想にもとづいているアメリカ国家が崩壊するのである。それは単なる人気取りのためではない、アメリカの大統領がアメリカ国家を崩壊させるようなことをするのは許されない。
 原爆投下をアメリカの大統領が謝罪できるようになるためには、その前にまず、アメリカ国民が歴史の欺瞞をやめ、事実の上にアメリカのアイデンティティを築かなければならない。


 ということである。アメリカは、ネイティブアメリカンを大虐殺した過去を抑圧しているから、神経症的に正義を証明しなければならない強迫観念に取り付かれ、正義を振りかざして戦争をし続けないと、精神的安定を保てないということ。また日本への策略がうまく行き過ぎたので、本当に正しかったのか確かめたくて、ベトナムやアフガン、イラクにも同じ様なことを神経症的に繰り返さないと、いられないらしい。
 同時に、日本の欺瞞も指摘されている。まあ、世界中、欺瞞だらけよ。認めたくないうしろめたい過去を直視するのは辛いこと。だれでもしたくないから、欺瞞でごまかすわけですからねえ。そして神経症的にアメリカは侵略戦争をし続けるわけだし、日本人は、アメリカにへつらいつつ、国内世論は分裂したままである。


「何で来ないの」「失礼だ」=米国、平和式典欠席で−長崎の被爆者http://www.jiji.com/jc/zc?key=%ca%bf%cf%c2%bc%b0%c5%b5%b7%e7%c0%ca%a4%c7&k=201008/2010080900722
長崎原爆忌の9日、米政府代表が広島市の平和式典には出席したものの、長崎市の式典には欠席したことについて、長崎の被爆者からは怒りと落胆の声が相次いだ。

怒っても、見当違いだと思う。
オバマが、謝罪をしに来たわけじゃないし。
ブッシュとクリントンとオバマが、三人そろって、すべてのアメリカ人を代表して、爆心地にひざまづいて涙を流しながら懺悔するなら、世界も変わると思う。アメリカにそれを要求するなら、同様に日本軍に虐殺された人々に対しても、日本政府はそれをすべて認めて歴代首相が謝罪をしなければならないだろう。
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2010年08月09日

葬式はいらない?

寺院は要らない?

中世から明治維新まで、寺社は、口減らしのために預けられた子供や、社会から阻害された人々の避難所であった。教育、更生、厚生、などの役割。
 明治維新のころから、農村社会が弱体化し、出産調整もしやすくなり、欧米的社会構造になるにつれ、寺社のそれまでの役割は無くなっていった。
 そのまま、村の行事や宗教儀礼の機能は最低限だけ残して、規模を縮小していくのが自然の成り行きだった。しかし、当時の僧侶や神官は、寺社にしがみつき、結婚をして世襲させることで弟子の不足を補い、加持祈祷や滅罪供養に法外な料金を徴収することで生計を支えることを考え出した。
 特に寺社に対して布施を行う習慣のなかった日本人だから、そのようにして布施を徴収しなければならない寺社の苦境も理解できる。日本人は、身の回りにある神仏を習慣的に信仰しているだけで、出家者や宗教教義などには、関心の無い民族なのである。

 明治維新のときに、必要なくなった寺社と、そこに居ついていた僧侶神官が、そのまま規模を縮小していなくなればよかったのであるが(最低限は必要かもしれないが)、寺社に執着し生き残りをかけて、僧侶が勝手に葬式加持祈祷を始めただけのことである。

 明治維新で、日本人の多神教的な素朴な信仰が、外圧によって壊されたという面もあるが、内側から僧侶神官によって、それまでの素朴な信仰が、葬儀と加持祈祷と、高額なお布施に、踏みにじられたという面もある。

外からも、内からも、日本人の信仰は、壊されてしまった。

さらに、葬式産業なんて、、。こんな国は、他に無い。
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2010年08月08日

核を持ったアメリカという暴力団

『 日本人は、なぜ、かくも卑屈になったのか 』

岸田秀 小滝透 共著 飛鳥新社 2003年8月

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小滝 「 しかも観念的には「自分たちは戦争を放棄した平和国家として再出発する」と言いながら、アメリカ軍が日本を守ってくれているということを承知の上でそう言っているんですね。そんなことを言っても、核を持っているアメリカが日本を支配下に置いているのだから、外から見れば、いくら「平和憲法だ」「非核三原則だ」などといっても、「日本は核武装をしているじゃないか」ということにしかならないと思うのですが。」

岸田 「 そこに日本の戦後の最大の自己欺瞞があります。暴力団に守ってもらいながら、おれは平和主義者で暴力は嫌いだと言っているわけですから、外国からは、「このインチキ野郎!」としか見えないですね。、、、、」
p,11
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日本は、「軍も持たない、戦争もしない」ということであれば、敵が攻めてきた時も抵抗せずに、滅ぼされるのを覚悟しなければならない。
 歴史上、そういう国や民族はいくらでもある。非暴力を貫いて滅ぼされた国々、民族。
インカも、釈尊の母国も、インディアンも、、、。

日本人に、そんな覚悟があるとは思えない。
「国に誇りを持つ」と言いつつ、核の傘下に頼り、憲法を守るといいつつ、たとえ殺されようとも、自分は殺人を犯さないという覚悟も無い。

かといって、日本がナショナリズムむき出しの、軍事大国になったらよいとも思わない。


私の愚考

1日本にあるアメリカ軍の基地をすべて撤廃する。
アメリカ軍に出て行ってもらおう。手(パー)ばいばーい

2日本の国土は、日本軍が守る。
通常兵器は保有するが、核兵器は持たない。

3核兵器を保有し続けているアメリカを批判し続けよう。演劇

4すべての国が、核兵器を捨てきったら、次は、通常兵器も削減しつつ、最終的には、武器の無い世界に。
これこそ、日本の進むべき道だ。手(チョキ)


今のままでは、核を保有しているアメリカを批判することさえできない。
それどころか、馬鹿などうしょもない菅が、広島の式典のあとに、「「核抑止力はわが国にとって引き続き必要だ」と強調した。」らしい。こんな人が首相なのかと思うと、がっかりである。
 まだ核を使用した国としての道義的責任を明言したオバマの方が現実を正しく理解している。菅よりはオバマの方がマシだと言う五十歩百歩の話ではあるが。

年間60億ドルもの 「 思いやり予算 」!!
まずは、これを廃止しよう。
沖縄女性をレイプし続ける米軍兵に、なにが思いやり予算だ。ボケ!! 氷山の一角でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%B1%B3%E5%85%B5%E5%B0%91%E5%A5%B3%E6%9A%B4%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

中国への援助ももういいでしょ。
 
http://mainichi.jp/hokkaido/seikei/news/20100807ddr001040002000c.html
広島原爆の日:国連事務総長、米大使ら初参列 ヒロシマ、核軍縮舞台に

戦争大好きなアメリカ人が、心を入れ替えないと、平和にはならないでしょう。
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