2010年08月31日

Review of IPCC

Inter Academy Council

http://reviewipcc.interacademycouncil.net/index.html

http://reviewipcc.interacademycouncil.net/report.html

http://reviewipcc.interacademycouncil.net/report/Chapter%205%20-%20Conclusions.pdf

予想通りの結果でした。

欲望は、理性に先立ち、理性は欲望の正当化に使われるだけである。
posted by ta meta ta at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月28日

ものぐさ精神分析 18の2 大乗仏教の起源

長くなったので、分割。

インドにも、多神教の土着の信仰があった。
仏教は、それらを否定する形で定着した。
しかし、それまでの土着の神々を完全に駆逐するようなことはしなかった。この点は、他の一神教と違うところだ。日本でも、本地垂迹説で、ごまかして、両立を図る。

本当に仏教とは、面白い宗教だ。

しかし、それまでの宗教を低く見ることは、否定することとあまり変わらない。世俗を否定して仏教の法が優れていると主張する点も同じである。

世俗を否定し、神々を否定し、自分たちの法が唯一正しいとする点は、一神教と変わらない。

ただ、他の一神教と違う点は、「 押し付けがましくない 」ということか。

自分たちが正しいとしても、それを押し付けたところで、その人が幸せになれるという保障はない。聞きたくないという人に、無理に聞かせるほど、骨の折れることはないし、所詮、人のやることなんて程度の差こそあれ、空虚なものでしかない。という諦めがあったからか。

ますます仏教というものは、不思議だ。

こんな、どうでもいい感じで、世界が諦めることを知ったら、戦争は無くなるのだろうけれど、そう考えることさえ、押し付けとなるから争いの火種になる。
 人は、何も心の支えになるものが無いと不安で生きてはいけない。だから宗教が必要だし、それで争いも起きてしまう。

でも、欲望に焼かれている世界を見て、少しでも仏教に耳を傾けることができたら、、、、。と思わずにはいられない。

釈尊は、弟子たちを連れて、街を一望できる小高い丘に上がった。そして、

「見よ、世界は煩悩の火で焼かれている。」と言いました。
出典は失念


神秘体験は仏教ではないということについて。
仏教とは、非相なるものを、非相であると見ること。空なるものを空であると見る見方に習熟すること。

たとえば、ヨーガによって何かとの一体感とか、万能感とか、そういう体験や感覚は、退行的自我の体験であって、仏教ではない。自我が退行したまでで、それまでと同じ様にあり続けていることには変わりない。アルコールを飲んで、思考が麻痺しているのと同じである。釈尊は、そんなヨーガに入ったときだけの恍惚感は、意味がないとして退けている。釈尊は、特別な状態における万能感や一体感は否定している。一体感は、乳幼児が感じる自我の初期状態である。それが仏教の目的なら、修行などしないで催眠術にかかったほうが簡単だろう。特別な宗教体験は、仏教ではないと知らなければならない。もちろん、宗教体験が、人格を変える事はあるが、たまたまそれがきっかけであっただけであろう。出世や退職、家族との死別や、結婚や出産などがきっかけとなって人格が変わることもあり、人格が変わるきっかけには宗教体験が特別なのではない。まして、仏教の正しい理解には何もつながらない。
 仏教は、縁起を正しく理解すること、そして、それに習熟すること。これ以外に仏教はない。
posted by ta meta ta at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ものぐさ精神分析を読む 18 大乗仏教の起源

ものぐさ精神分析と書こうとすると、ぐうたら生活入門と書きそうになってしまう。

それは、遠藤周作。

一神教と多神教の話しは、かなり吟味されているが、

仏教

については、あるときは、多神教、あるときは、無神教、あるときは、無我の教えなどと述べられて、深く考察されていない。

前の 「 ものぐさ精神分析を読む 17 」で、無我と超越的なものへの憧れということを書いたが、まあ、これが岸田秀氏の仏教理解として了解することができるし、私もこの仏教理解は正しいと思う。

それにしても、仏教は、不思議な宗教なので、仏教の歴史を考えてみたい。

たとえば、大乗仏教の発生と成立に関してでさえ、いまだに議論が絶えない。

岸田理論を当てはめると、
仏教は、世俗の否定ということで成立していた。
執着を離れるために修行をするのではなく、世俗が幻想であると見抜けた人々が、世俗を捨てて、集団になって生活していたということになる。釈尊のいた時代は、貨幣経済が発達して、それまでの道徳などが衰退して、さまざまな思想が雨後の竹の子のように発生した。多様な価値観と、伝統や文化を軽んじる風潮。
 ここで、釈尊は、伝統的な信仰と輪廻思想を復活させようとしたのだという見方もできる。
 私は逆に、一切は無自性であると主張して、世俗の一切を否定したと考えている。輪廻思想は、世俗の思想である。

個人的な、心理的なことに着目すると、仏教は、世俗で漠然と信じられている価値観、たとえば、金銭、性欲、食欲、名誉欲、所属欲、などなどの欲が、実は、幻想でしかないということを見抜いて、さらには、自我ということさえ、自分が人間であり、たとえば若くて寿命が有るとか、健康であるとか、四門出遊のたとえ話にあるような、人間の根本的な驕り、欲望までも、実体のないもの、うつろなものであると見抜いて、世俗を捨てて、出家する宗教だろう。
 ただ世俗を否定して出家するだけでは物足りない人々、世俗は否定したいが世俗を捨てきれない人々、要するに、インドの階級社会で虐げられていた底辺にいた人々が、全知全能なる神としての仏、救済の仏、信仰で救ってくれる仏、を考え出したのだろう。それが、大乗仏教となり、西洋的な一神教の要素を備えることになる。一神教のような不自然な神は、被差別者によって作られるという岸田理論が適用できると思いついたのである。
 ただあまり、大乗仏教はインドのヴァルナの底辺の被差別者が無理をして作り出したものであるというと、日本の僧侶たちや仏教学者は、怒りだすかもしれないな。
大乗の起源は、ストゥーパの周りに集まった人々が次第に大きくなったのが始まりとされる。これを別の角度から読むと、僧院に入れてもらえず、また直接出家者から説教を聴くことが許されない差別された人々ということも考えられる。インドではアウトカーストの人は、寺院に入れない。
 また、大乗経典に特有の、小乗をけなし自分たちの大乗が優れていると強調したり、小乗の出家者として有名な舎利子や目連をけちょんけちょんに貶したり、大乗を誹謗すると地獄に落ちて永遠に苦しむという主張など、一神教的要素として考えられないだろうか。
 さらに、大乗は本来の仏教の思想を取り戻したと主張されるが、それは、カーストを否定した釈尊の思想を取り戻す、虐げられた人々にこそ救いの手をさしのべる仏教という面が強調されたのではないか。

 こう見てくると、今まで解けなかったさまざまな疑問が、つじつまが合うように説明できそうである。



別の点で、出家修行者がいるのは、キリスト教と仏教だけである。ユダヤ教やイスラム教には、預言者はいても修行者はいない。ユダヤ教などは、世俗と聖なることが、分割されていない。イスラム教では、日常がそのまま宗教なのである。
 キリスト教と仏教は、世俗の生活と、信仰が切り離されているので、一般人は、日常は、宗教と関係ない生活が送れる。そして宗教行事や、決められた日時だけ宗教に従えばよいと言うことで済ませられる。あくまでも、信仰は、心の内面のことであるとされる。世俗と聖なるものが切り離されているから、聖なることだけに専念する人々が出てくるし、必要になる。それが出家者、聖職者である。必ずではないが、政教分離をすると、聖職者と言われる人が出現するということでもある。
 キリスト教の国である欧米と、仏教国の日本?が、宗教的ドグマに縛られることなく、近代化ができたのも、宗教は内面の問題だとして、経済活動と切り離すことができたということが大きいと考える。
 こう考えると、もしかしてキリストは、仏教思想を知っていのかもしれないと思ったりする。はたして。


それにしても、世捨て人のようなものが、フラフラしている世の中って、面白い。インドだからできたことか。日本にも定着しなかったし。インド以外の国で、本来の釈尊の生活を行っている国はない。タイやスリランカでも形骸化している。チベット仏教は、その意味では釈尊と完全に逆のことをしている。


宗教が原因で、戦争が絶えない。

信仰は、内面の心のことで、何を信じようと勝手であり、他人の信仰に口出ししてはいけない、ということで統一できたらよいのだけれど、その考えでさえ押し付けてはいけないのか。
 アショーカ王とビンビサーラ王の統治の仕方は、何かの参考になるかもしれない。
 どのようにインドで仏教は信仰されていたのか。
 イスラム教やユダヤ教、キリスト教の、いわゆる一神教がいなかったから、平和だったのかな。拝火教はどうだったのだろう。
 インドの信仰の歴史は、研究する価値があるかも。
posted by ta meta ta at 14:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月21日

メダカの餌を手作りしよう! 予備知識編

メダカの餌を、自分で作ってあげたい。と思った。

『 メダカと日本人 』 岩松鷹司著 を見ている。

はったい粉、エビ粉 そして、テトラミン?

テトラミンの意味が解らない。たぶん、商品名?
http://www.tetra-jp.com/tetramin55th/index.html
テトラミン、高い、expensive!! 却下ふらふら

テトラミンかエビ粉と、はったい粉とを、半々で混ぜて与えると良いらしい。手(チョキ)

稚魚の飼育には、うっすら緑色になる程度の、ミドリムシ(クロレラ、ユグレナ)が良いらしい。もちろん粉餌も与える。
稚魚は、薄いグリーンウオーターで飼育しよう。ひらめき

まあ、とりあえず、市販品で済ます。
乳鉢があるので、特にメダカの子供用の餌は買わない。磨り潰して色々な餌を与えている。

149180849.jpg

特に、報告するほどのものでなし。
普通のメダカの餌です。
大きな袋の徳用は、餌をあげるたびに開けていると、使い終わる前に酸化してしまいそうなので、瓶に小分けして、小出しにしています。袋の入れ物は口を閉める時に空気をできるだけ追い出して閉めると、ちょっとした工夫で鮮度を保てます。
 瓶もできたら茶色が良いのだが。


餌がなくなったので買いに行ったら、いつもの、

キョーリン ヒカリ 特用メダカのエサ・タナゴフナ

が無かった。ほぼ、うちは、これ、一本槍だった。
http://www.kyorin-net.co.jp/fresh/fr02.html
無いので仕方が無い、

コメット めだかのエサ 150グラム 
http://www.itosui.co.jp/products/medaka/
を買った。150グラム400円。キョーリンと量と値段が同じだ。昔は、箱のパッケージで、30グラムづつ、5袋入っていた。今でもあるのかな。
 箱のパッケージのに比べると、しっとりしていて、粒が小さい。メダカにはちょうどよい。箱の方は、トウヨシノボリの稚魚に最適だった。沈むしね。しっとりしていて同じ重量で同じ値段なら、乾燥している箱の方が得ではないかとセコイことを考えてしまった。

5センチほどのタモロコと、トウヨシノボリには、

ヒカリ ピコシンク ぽっちゃり金魚にしずむつぶ
http://www.kyorin-net.co.jp/gold/go07.html
が最適だ。しかし、置いているお店が少ない。

時々、これをあげている。
テトラ キリミン メダカのえさ
http://www.tetra-jp.com/products/food/food07/
同じエサばかりはよくないと思うので、これもあげたりしている。
posted by ta meta ta at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | メダカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サルモネラ菌対策

アメリカの鶏卵は、サルモネラ菌に感染しているから、必ず加熱調理をして食べる、というのは、常識かと思っていた。

が、なんだか、回収しているらしい。?
基準を超える感染量だったのかな。?

ちなみに、日本の鶏卵は、塩素殺菌されているから、ほぼ大丈夫です。ほぼと言うのは、塩素殺菌でも、殻のでこぼこに隠れている強力なサルモネラ菌は生きている可能性があるからです、でも、数千個に一個とかいう確率です。しかも、その卵を触って、それが生きたまま食品に着いて増殖して、さらに人の口に入る確率はかなり低くなるので、問題にしなくても大丈夫な範囲だと言うことで、生卵をご飯にかけて非加熱で食べたり、卵を触った手を洗わずに舐めてしまっても、まあ大丈夫だということです。しかも万が一に当たったとしても、集団感染にならないから、気が付かないと言うことです。
 すき焼きを食べる時に、皿の中に生卵を入れて食卓に出して、食べる直前に割って、卵が入っていた皿の中に生卵を入れて、手も洗わないで食事を始めるのは、危険です。たとえ日本の塩素殺菌された卵でも。
確率が低いから、問題にされないだけです。

 卵を触ったら、すぐに手を洗う。それも、アルコール殺菌などは効かないので、物理的に流水でゴシゴシ洗い流すということは、サルモネラ菌感染予防には、必修です。
 冷蔵庫の卵の入っている場所も、卵を買ったときに卵の入っていた容器も、サルモネラ菌に汚染されているという認識が必要です。

 まあ、そうは言っても、普通に卵かけご飯を食べています。
アメリカでは、生卵は食べないのは、基本ですし、調理の時に、卵を触ったら、すぐに手を洗うし、容器なども他のサラダ用の野菜などに触れないようにすることも、やはり基本です。

 でも、なんで、鶏卵をサルモネラ菌ぐらいで回収しているのだろう。


鳥などは、「 排泄孔が一つ 」なわけで、要するに、あの、その、

穴が一つしかなくて、ウンチと卵が出てくる穴が、一緒なのです。

それで、卵が出てくる時に、表面にサルモネラ菌がついてしまうのですね。
 卵の殻やその膜は、中の雛が孵るまで、無菌状態を守れるようにできています。卵の殻は、とても優秀なのです。だから、問題は、殻の表面なのですね。だから、取り扱いさえ正しければ、サルモネラ菌に感染している鶏卵を安全に食べることができるのです。
 なぜ、いま、回収しているのか不思議です。

アメリカはそのうち、日本のまねをして、狂牛病の可能性があるとか言って、国内流通の牛肉も検査し始めるかもしれないな。変な国。
 経済が傾いて、衛生状態が悪化してるとか、貧富の差が開きすぎて底辺の人が感染しているとか、卵業界が、卵の値崩れ防止に取った作戦か。ある養鶏会社が槍玉に上がっているとか。?

http://www.cnn.co.jp/usa/AIC201008210005.html
米国でサルモネラ菌感染疑いの卵回収、5億個を突破
(CNN) サルモネラ菌汚染の疑いがあるとして全米で回収された卵の数が5億個を突破した。

アメリカ人は、外からやっている敵に、異常に反応する。映画も、エーリアンとか、ジョーズとか、最近では、新型インフルエンザだな。目に見えない敵に過剰反応するアメリカ人。いつも何かに怯えているアメリカ。

チキンだな。
posted by ta meta ta at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

気温と植物のCO2吸収量

私の推論であるが、
地球の平均気温は、2000年以降、上昇していない。それに伴って、植物の成長も増加せず、CO2の吸収も増加しない。だから、この10年間、植物のCO2吸収量が増加しなくても、温暖化の影響ではない。というか、この10年間は、温暖化していないのに、データの改竄で、温暖化していることにしているから、植物の成長とCO2の増減が説明できなくなっているのである。以下の記事は、温暖化による危機よりも、温暖化が気温のデータの改竄によるものだという、傍証になるのではないか。

 と、私は勝手に何の根拠もなく思っている。

CO2:植物の吸収量減少 温暖化影響か 米大学分析
 陸の植物が光合成で取り込む二酸化炭素(CO2)の量が、減少に転じた可能性のあることが、米モンタナ大の分析で分かった。温暖化による気候変動が植物の成長に影響しているとみられる。20日付の米科学誌サイエンスに掲載される。
 植物は、温暖化の原因となるCO2の重要な吸収源。07年に公表された国連の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」第4次報告書では、今世紀半ばごろまでは陸上のCO2吸収量が増え続けると予測しているが、減少傾向が事実なら、対策の大幅な前倒しが必要になる可能性がある。
 研究チームは、米航空宇宙局(NASA)の衛星による過去10年間のデータを分析。陸の植物が光合成で吸収したCO2から、呼吸で放出した分を差し引き、CO2の蓄積量を推計した。
 その結果、00〜09年は年間蓄積量の平均が535億トン(炭素換算)と推定された。この10年間は蓄積量が減少傾向にあり、減少幅は5億5000万トン。CO2に換算すると20億2000万トンで、日本の年間排出量の1.6倍に当たる。別の研究では、82〜99年の蓄積量は増加傾向だった。この10年間は、気温測定が始まった1880年代以来、最も気温が高い10年間とされる。【大場あい】
毎日新聞 2010年8月20日 3時05分
http://mainichi.jp/select/science/news/20100820k0000m040124000c.html

Rising temperatures reducing ability of plants to absorb carbon, study warnsResearch shows warming over past decade caused droughts that reduced number of plants available to soak up carbon dioxide
http://www.guardian.co.uk/environment/2010/aug/19/rising-temperatures-plants-carbon

大気中のCO2の動きは、こちらのモデルを参照
http://env01.cool.ne.jp/frommanager/fm2010_7.htm#n485

参考
渡辺正氏は、以前、農業生産が上がっていたことを証言している。

posted by ta meta ta at 10:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月20日

蓮が咲いた 4つ目

148482301.jpg
蓮が咲いた。

今年、4つ目。
1つ目が咲いたのは、7月30日だった。
いつもは、2つ程度。
気温とか日照とか、良かったのかな。

「 ルミックス DMC FZ50 」で撮影。

黄色い色が、こっくりと出ない。このFZ50は、色が薄く全体的に薄っぺらい印象の画質になる。
大きな望遠レンズと、小さいCCDで素子数を上げているので、こういう撮影では、リアリティーを損なってしまう。運動会や発表会、野鳥には性能を発揮するのだが。

ちなみに、比較すると、「 FUJI F30 」で撮ったのは、
85985186.jpg

この 「富士フィルム F30」は、映りの良いデジカメを父が欲しいと言うことで購入した。
画素数を無理に上げていないのに、大き目のCCDで、レンズもあえて望遠や広角を捨てて、平凡なスペックにして、本来のよい写真に焦点をあてた製品だと思っている。
 単によい写真を撮りたいと言うことなら、シグマDP2に迷わず決定なのですが、父が使うので、使いづらい、ぶれる、動作が遅い、ピントを合わせづらいとか、文句を言われること間違いなしなので、富士フィルムF30にしました。
 シグマDPシリーズは、写真のための写真機なのです。

ああ
また、シグマ DP−1 DP−2 が、欲しくなってきた。
posted by ta meta ta at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月19日

ものぐさ精神分析を読む 17 自我と宗教

岸田秀氏の仏教に対する見解を知りたければ、
『 仏教と精神分析 』 三枝充悳 岸田秀 共著 
という著書があるが、あまり役に立たない。
それよりも、八木誠一氏との対談 『 自我の行方 』 や、小滝透氏との対談の方がよっぽど役に立つ。

それはさておき、岸田氏の唯幻論は、仏教の唯識と関連があると昔から多くの人から指摘されていることである。
 しかし、唯識は、限界があり、中論に劣る。
すべてが幻想であると言ってしまうと、その言葉さえ幻想になってしまい、その主張さえ成立しなくなるという自己矛盾だ。その唯識の矛盾を回避するため、中論のツォンカパは、「言葉による言葉の否定」(四津谷孝道氏の御研究を参照されたし)というやり方でしか言い表すことができないとした。
 それでも、すべてが幻想であるとすると、その幻想を生み出す外界や心は何なのか、という疑問が残ってしまい、悟れたら真実の姿が理解できるという曲解が横行し、唯識は別名「瑜伽行唯識派」と云い、ヨーガによって真理を把握できると誤解されるようになった。神秘主義である。しかしこれは、仏教の六波羅蜜を完全に否定した曲解である(山口瑞鳳氏の御研究を参照されたし)。(ヨーガの宗教と利他行の矛盾については、津田真一の御研究を参照されたし)
 そして、竜樹の正説、すなわち釈尊の正説は、シャーンタラクシタ(寂護)が正確に継承したと見られる。
 それは、「縁起生」と山口瑞鳳氏によって名づけられた。認識のもとになる外界は、確かに存在するが、人間の知覚は、先験的な「今」を把握することはできずに、かならず、一瞬遅れて、ある一定の時間の長さ、経過した時間を、今現在だと認識しているに過ぎない。そして、正確に「今」を認識できないのであるから、空間や物質を正確に認識することはもはや不可能となる。何時何分何秒に、ある空間座標に、ある物質が存在するという仕方でしか定義できないのであるから、時間が正確に定義できない以上、空間も物質も定義できないことになる。要するに、人間は、時間を正確に把握できないし、時間を正確に把握できない以上、この世も、私という存在も、幻想でしかないということになる。
 ここまで論じることによって、すべては、幻想であるということが正確に述べることができ、自己矛盾を解消することができる。
 さらに誤解が多いのは、真実の姿があり、悟ったら真実の姿が理解できるという思い込みだ。人の感覚を離れて、人間に意味のある真実の姿などは存在しない。認識のもとになる外界は確かに存在するが、人間が人間の五感に制限されている以上、人間の五感を越えて認識することは不可能である。(このイリュージョンについては、日高敏隆氏の『動物と人間の世界認識』を参照されたし)だからこそ「先験的な「今」」と言うのである。
 さらにいえば、時間が流れているという感覚も、その字のごとく人間の脳が作り出した感覚に過ぎない。その他、性欲、食欲、自分が人間であるという自覚も、人間が作り出した幻想である。自我意識も文字どおりに「自我」という「意識」なのであり、意識はつくられた幻想である。

 人は、幻想を幻想であると認識することはできても、幻想を超えて、なんだか解らない空想された真実が見えるようになることは無いのである。それこそ見果てぬ夢、幻想であり、もし、私は真理を悟ったとかいう教祖様がいたら、ペテンであると知るべし。


まあ、そんなわけで、仏教の、特に「縁起生」と岸田氏の「唯幻論」は、私は、同じであると結論する。

ある学説とある学説、たとえば、心理学と仏教学とかを比較検討する場合に、「こんなところが似ている、ここが似ていない」とか、いくら論じても、無駄である。似てる似てないでは、話にならない。同じか、違うかしかないのである。そうでなければ、建設的な議論にならない。あるいは、仏教でも臨床心理学でも「実践」から生まれたものであるから、互いの理論を実践に適用して、そこから新たな発見があるという研究なら意味があるだろう。

仏教は、多神教なのか、一神教なのか、意見が分かれるところである。また、釈尊自身はどんな信仰を持っていたのか、興味津々であるし、最澄、空海、親鸞、道元、などなどを研究してみたい誘惑に駆られるが、その人がどういう信仰を持っていたかは、残された文献だけではどうにもならない。一神教か多神教かは、たいして重要ではないと思うようになった。というか、そう思うことにして諦めた。
 
また仏教の 「縁起思想」は、宗教なのかという疑問も残る。宗教の定義も曖昧であるし、縁起思想は、他の宗教と比べると独特である。
 自我の支えとしての宗教を考える場合にも、縁起思想は、自我の支えになるのか疑問である。



以上の、疑問を解消するような、今までの私の疑問をすべて答えてくれるような文章に出会ったので、ここに書きとめよう。

人間は自我というものをつくってしまったときに何かから切り離された。それは確かだと思うんです。そのときに、切り離されたもとのものを求める。超越的というのは自我を超えているという意味なんです。
 ただ、自我というものはつくりもので、まさに一時の幻想でしかない。幻想でしかない自我を本源的なものと考えて、その安定と快楽を求めて、自我を安定させるために、自我を超越したものにつなげる、そういうつなげ方は欺瞞ではないか。自我というものを温存して、それをよくするとか、楽にするとかいうのではなくて、自我を捨てる、または超えることで(ママ)何か超越的なものとつながりがある(ママ)のではないかと思うんですね。
 ただ、「捨てる」というと、大日本帝国のために命を捨てるという形もあるわけですが、そういう大日本帝国とかの具体的なもののために自我を捨てるというのは間違っていると思う。そういうのではなくて、もともと自我というつくりものを我々がつくったときに、我々は何かから切り離された、その何かを求めるということじゃないかと思うんです。その何かとは、我々人類の本能が壊れたときに我々が見失ったものかもしれません。だとしたら、もう取り戻せないかもしれません。

岸田秀著 『 唯幻論論 』 青土社 1997年 p,291

生命の流れというのは、まさに我々人間も地球上の生命の流れの中にいるわけですけれども、僕は、人間は本能が壊れた動物で、そのかわり自我をつくったということをよくいっているわけです。自我というのは、いわば生命の流れから外れた存在じゃないか。それが人間存在の根拠になっている。そこで人間は、基本的に生命の流れから外れているという疎外感がある。
 そこの疎外感を何とかして、生命の流れを全然失っているわけじゃないけれどもそこから疎外されていますから、生命の流れの中に戻りたいというか、それとつながりたいというか、つなげてくれるのが、聖なるものというか、宗教なんだと僕も考えているのです。無我ということが仏教の基本原理ですが、自我を捨てる、自我を超えることを悟りの境地としているわけで、そのような境地には到達できないかもしれませんが、無我とはまさに、生命の流れから外れた人間のそこへ戻りたい憧れを表しているのではないかと思います。

岸田秀著 『 日本人はどこへ行く 岸田秀対談集 』 青土社 2005年8月 p,220


また、蛇足ながら

すべては幻想であるというと、生きている価値が無いではないかという非難について。
答えて曰く、
価値が無いと生きていられないと思うことが、そもそも幻想なのである。自我の発達史を学ぶべし。

幻想であるとしても、ショーペンハウエルも言っているように、「知への欲求」は消えない、際限がないのではないか、その智慧さえ幻想なのか。
答えて曰く、
理性とか、合理とかいう概念は、もちろん西欧哲学の概念であり、幻想である。仏教の智慧も、幻想である。ただ、仏教の場合には、その「縁起生」を理解し、すべては「無自性」「非相」であると理解しそう見ることに習熟することが理想とされる。そこが仏教の智慧の終着点であろう。非相を体得することが、仏教の終着点である。「知への欲求」は、そこで消える。智慧の終着点を定めている仏教は、無限の理性崇拝でも、科学万能主義でもない。


最後に、肝心なことが抜けていた。

自我は、外に拠り所を必要とする。
真実の自己を求めるというのは、溺れる人が、自分の足にしがみついているのと同じ。そして本当の自分などという都合のよいものは無い。もちろん仏教は、真実の自己など肯定しない。なんと世間では曲解が横行していることか。

ありのままに、人間らしく、人の道を歩むのが自然であるという考えが一般的であるが、実は、すべては非相であるということの方が、「自然」なのである。「自我をつくったときに失われた自然」に心を馳せるのが、「非相の観法」である。これが仏教が宗教として成り立つ機能かと思う。そうすると、仏教は、一神教でも多神教でもないことになる。西洋の宗教の概念には当てはまらないな。
posted by ta meta ta at 22:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月18日

納豆せんべいに騙された

147624351.jpg

ピーナツのせんべいかと思って、一口でがぶっと食べたら、何とも言えない風味が、口の中に広がり、あの、ネバネバまで再現され、納豆をたらふく食べたあとの状態になってしまい、口の中だけでなく、息も、部屋も、体じゅうが、納豆になってしまった感じだ。

不意打ちだったことが、心理的にダメージを大きくしている。

深谷市にも、「 葱味噌せんべい 」 がある。
博多の、「 辛子明太子せんべい 」とか、まあ、何でもせんべいにしてしまう文化が発生しているようですが、素材の風味が、そのまま生きているのは、これが最高だ。

高温多湿の夜に、納豆せんべいは、きつい。

「霜月はるか」さんは、納豆好きが高じて、
「文月とうか」という芸名に変更するそうです。
文月は7月、とうかは10日で、納豆の日です。

私の誕生日でもあります。
納豆の日といわれてもうれしくないので、観音様の4万6千日のご縁日だと、説明しています。

亀じるし水戸納豆せんべい 最強です。
http://kamejirushi-sh.sv1.allin1.jp/goods/1258030454570/

冗談抜きで美味いのは、黒胡椒せんべい。別名ラーメンせんべい
http://www.osenbeiyasanhonpo.jp/index2.html
posted by ta meta ta at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ものぐさ精神分析を読む 16 敗者の美学

子供たちが、「 ごんぎつね 」という童話のアニメを観ていた。

そういえば、「フランダースの犬」がなぜ日本でこんなにも人気があるのか不可解だと言う外国人の意見を何かで聞いたことがあるのを、思い出した。


その二つの物語の共通点は、理解されずに、無抵抗のまま、善人が死んでいくこと。

これだ、とっさに思いついた。

「日本人は、アメリカに、コテンパにやっつけられて、外面的には卑屈にへつらい内面的には悔しがっている分裂した精神状態で、それを意識しないようにして、取り繕っている。この欺瞞が、日本の根本的な病理である。あらゆる日本社会の問題は、ここからきている。」岸田秀氏の見解を私が要約

そのような、岸田秀氏の、「 史的唯幻論 」で、解釈できるかと思いついた。

要するに、冷たい世間、理不尽に虐げるアメリカ。善人で心優しい主人公が、無抵抗のまま死んでしまう。おとなしく言いなりになっている日本を、その主人公に重ねて日本人は観ているのではないだろうか。
 本当は、戦争に負けたこちらにも、清く正しい言い分があるのだと。弱く美しい最後をとげたのは、日本人の側なのだと。アメリカは誤解している。そして真実の正義はこちらにあり、アメリカにも誰にも理解されないままなのだと。永遠に私たちの真心は理解されないままなのさって。

そんな日本人の無意識の叫びが、「フランダースの犬」や「ごんぎつね」を観るたびに、無意識のうちに心を満たし、共感してしまうのだろう。そして何度でも繰り返し観たくなる。
この理不尽さが、たまらない!

「フランダースの犬」犬と「ごんぎつね」猫以外に、他にももっとないかな。

清く正しい、心優しい主人公が、無慈悲に悪役に殺されてしまうだけの物語。 アメリカの映画だと、十字架に救われたり、賛美歌が奇跡を起こしたりして、主人公が救われてしまうのだけれどな。滅びの美学がもてはやされるのは、日本人の特徴であると言えないかな。

参考
『二十世紀を精神分析する』文春文庫 p,287
「アメリカの道義的威信の回復をめざす」
(『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著伊藤延司訳 アイネックス)書評

戦いには勝ったが、同義的には負けたアメリカ。それを隠蔽するための東京裁判。
posted by ta meta ta at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

南極の海氷の続き

前日、読売新聞の「温暖化 降雪増 南極の海氷増」という記事を批判した。
http://blogs.dion.ne.jp/kappappa/archives/9639611.html

写真と図解入りの記事ではあるが、説明不足で、温暖化の妄信者を増やすだけだと懸念していたが、詳しい解説をしているサイトが、ツイートされていたのでリンクを貼っておこう。

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20100817001&expand#title
 「 温暖化でも南極の氷が溶けない理由 」
Christine Dell'Amore  for National Geographic News
August 17, 2010

表題の、「南極の氷」って、南極海の氷か、南極の海氷か、はっきり言わないと、誤解しちゃうじゃん。ある意味、読売新聞よりも、害悪がある。


私の温暖化への考えは、
丸山茂徳氏
赤祖父俊一氏
Henrik Svensmark 氏
の方々の説明が、正しいと思っている。
サイトでは、
「『環境問題』を考える」を時々見ている。
http://env01.cool.ne.jp/index02.htm

上記サイトの、最近の記事、
 「 解題 人為的CO2蓄積仮説 」
http://env01.cool.ne.jp/frommanager/fm2010_7.htm#n485

を読んで、私の正しくは理解していない勝手な解釈?かもしれないが、私は、「人為的なCO2が蓄積するとしても、今のような高濃度にはならない」と思い込んでいて、きっと、観測結果の人為的な改竄が行われいるか、自然の気候変動で、濃度が上がっているのだろうと考えている。
 CO2の観測所も、市街化の影響を受けていると思っている。

全体的な、地球の温度の仕組みの研究は、スベンスマルクが、正しいと思っている。南極の温度も、スベンスマルクの理論で簡単に説明がつくのである。

104636843.jpg

あなたは、これを読んだあとも、温暖化論者でいられるかexclamation&question

衝撃の真実 なんてね。いい気分(温泉)
posted by ta meta ta at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月17日

南極の海氷と温暖化

今日、本屋さんに行ったら、
『 二酸化炭素温暖化説の崩壊 』 集英社新書 広瀬隆著
を発見した。
立ち読みした。
特に新しい知識も無かったので、買わなかった。
電力会社の、発電の内訳、原子力、火力、水力、の割合が載っていたが、どうやって調べたのかと思った。実際の発電量の割合は、未公開だから。
 それにしても、真っ向から、人為的二酸化炭素による温暖化を否定する本が出たことに、ちょっとうれしさを感じる。同じ人が、似たような本を繰り返し出すのではなく、多くの人が書籍をどんどん出されると良いと思った。

今日の、読売新聞、
147108262.jpg
なんてこった、この期に及んでこんな記事。
もとの研究は、問題はないのかもしれないが。

おかしいのは、

 「 雪が雨に変わり、2060年代末を境に海氷が一気に解けだす可能性があると予想している。」

  と、この短い記事の中に、3回も繰り返されて、述べられていることだ。

もとの論文を見てみないと解らないが、この記事からでは、なぜ、雪が雨に変わるのか、なぜ、2060年が境なのか、まったく説明が無いので知りようがない。
しかも、海氷が解けると、何か不都合でもあるの?

マイナス50度のブリザードが吹き荒れる極地で、何度気温が上昇したら、雪が雨に変わると言うのか。
(雨が降ったと報道されたのは夏の海岸沿いの基地のある場所。半島の先っぽ。たぶん、シロクマ報道と同じ類だろう。詳しいことは解らない。ちなみに、いまは、寒波ですごいことになっています。あまり報道されないけれど。)

温暖化急先鋒の、雑誌ニュートンでさえ、仮に温暖化が進んだとしても、南極の氷が溶け出すまでには、数世紀かかるだろうという記事を載せていた。1981年8月

147109209.jpg

また、南極の気候は、地球全体の気候とはちがった動きをする。そのメカニズムの解明を、あの、スベンスマルクが行っている。
104636843.jpg桜井邦朋監修 青山洋訳
恒星社厚生閣

「 南極だけは、雲で温暖化する 」p,72
要するに、南極は、ぐるりと一周する風によって隔離された地域であり、原野は真っ白なので、雲が増えると雲が太陽光を吸収し、さらにその熱を再放射するので、南極に限っては、雲があるほうが温かくなるらしい。まあ、わたしの解りづらい説明よりも、原著をご覧ください。


読売新聞の記事の元になった論文を私は知らないので、正確な科学的な議論はできないが、それは専門家に任せて、ここで私はそういう報道がされていることを問題にしたい。
 読売新聞のその記事からでは、なんだかよく解らないが、温暖化で、南極に雨が降るようになって、2060年には、海氷が一気に解けだし始めると予想されていると勘違いしてしまうではないか。がく〜(落胆した顔)
そしてなんだか解らないけれど、温暖化はいけないという世論になってしまう。
 他の情報源を持たない、テレビと新聞だけの、多くの年配の方や、ネットや書籍に関心の無い人たちは、騙されてしまう。テレビでは、猛暑とロシアの森林火災の報道ばかりで、南半球の寒波の報道はほとんどしないし。

海氷は、海に浮かんだ氷のことで、これが増減したからと言って、だからなんなのさ?
posted by ta meta ta at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月16日

熱帯夜

あちー、うーーー。あつい。

室内温度、34度cあせあせ(飛び散る汗)


埼玉県北は、昼間は東京よりも暑くても、夜になると涼しくなるので、快適だったのだ。

昨年まで。

昨日と今日と、もうだめだ。

熱い南風が、吹いてくる。
都心で熱せられた空気が流れてくる。

南半球では、寒波と飢えで、ペンギンが死んでいるというのに。雪

南国とか、南の島とかって、憧れだったのに、もういいや。

トロピカルすぎるバー
posted by ta meta ta at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 環境問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

イトトンボのヤゴ発見

雨水を溜めておいた容器の中に、なにやら動くものを発見。
ウヨウヨいっぱいいる。3ミリぐらいかな。

水は、すこし緑色になっている。
アカムシがわいているのは知っていたが。



羽も体も、すべて真っ黒のイトトンボが飛んでいるのは先日目撃した。たぶんハグロトンボかと思うが、水草も何も入っていない、足場の無い容器に産卵したので、違う種類のイトトンボかも知れない。

メダカの稚魚は、多すぎるので、少しぐらい食べられてしまっても良いのだけれど、ショートメダカは食べられたくないな。隔離して保護するかな。泳ぎの鈍いショートメダカは、食べられてしまいやすいだろう。


お腹側の映像。

なんだか、顎が出っ張っていて、ヤゴだなあと思わせる。

posted by ta meta ta at 18:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ヤゴ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月15日

敗戦記念日に ベートーベンの9番?

NHKで、ベートーベンの9番を放送しているらしい。

なぜ、敗戦の日に、9番を聴かなければならないのか。

なんでも、1945年、6月に、何を思ったのか、演奏したらしい。それの再現らしい。

 歴史の知識も、その楽曲の知識も無い人なら何も感じずに聴いていられるのかもしれない。


どういうつもりで、8月15日に、9番を放送しているのかと、NHK に問いたい。

受信料、払いたくない。もうやだ〜(悲しい顔)

N響アワー − 日比谷公会堂・あの感動を再び〜終戦直前に響いた第9〜 −
1945年6月、終戦の2か月前に日比谷公会堂ではベートーベンの第9交響曲が演奏されていた。それを再現しようと今年7月2日に行われた公演をお送りする。


所詮、日本人には、音楽で世界を表現するとか、思想を表現するとかいう文化が成熟していないのだな。
 フィンランディアが、当時のロシアに演奏禁止になるというようなことは、日本人には理解できないのだろうな。
 なんとなく欧米への憧れで西欧音楽を聴いているに過ぎないのだろう。だから、こういう無神経なことがNHKにはできるのだろう。
 いや、異国への憧れでいい、それだけでも良いのであるが、終戦記念日に第九はないだろう。日本人の浅はかさ、欧米文化への無知をさらけ出してしまっている。

 アーリア人信仰とは何か、
 歌われている「神」とは何か、
 何を歓喜している歌なのか、
 この曲の政治利用は、どんなものがあるのか、
 欧米人が、世界にしてきたことは何か、
 日本軍によって、一千万人のアジア人が殺された。
 日本軍は、二百万人、戦死した。
 アメリカによる、人類史上初の一般庶民への空爆で一百万人の日本の女性、子供、年寄りが殺された。
 どんな理屈も通用しない、まったく悪でしかない原爆投下が広島長崎に行われた。

 そして、8月15日を迎えて、交響曲9番を、どんな思いで聴けと言うのか。ちっ(怒った顔)

こんなことをしているから、日本人は、中国人にも韓国人にも、呆れられてしまうのだ。
posted by ta meta ta at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月14日

カリスマを追うチベット

アメリカは、チベットを中国共産党を批判する道具に使っている。
 そして、日本、中国、韓国、台湾、北朝鮮がいがみ合う状態にしている。

そして北朝鮮を煽り、戦争になれば、隙を狙って、アメリカが傀儡国家を増やそうという魂胆だろう。


Remember Pearl Harbor って言われるけれど、なんでハワイがアメリカなのか、考えたことがあるのでしょうか。カメハメハ大王? 日本からの移民が、サトウキビ畑で奴隷同然に扱われていたこと。


悪の枢軸について
「 独裁政権、軍事国家、政教分離をしていない、国民の生活が故意に低く押さえつけられている。」
 これは、フセインのことでもアフリカのことでもない。チベットのことである。
 誰も信じないな。しかし、ブッシュの定義では、チベットこそ悪の枢軸なのですが、なぜか平和の象徴になって、アメリカであっても少数民族の見方であり正義の味方であるのだという旗印に、チベットは使われている。
 アメリカにとって、チベットは都合が良いのだ。
 中国共産党とトラブルがあるし、日本人の好きな仏教国でもあるし、チベットを大切にしていると傲慢なアメリカのイメージを和らげられるし、中国共産党を非難し、日本の中国への反感を強めるのに最適だし。
 一石二鳥、アメリカは今にも中国という大国に滅ぼされそうな民族を保護する正義の味方であり、博愛の国なのであるといえるし、世界の中国共産党への反感を煽るのにもちょうど良いのである。

 アメリカは、チベットを擁護することで、インディアンコンプレクスを解消したいのかもしれないが、そんなことでは、抑圧したことは解消されないだろう。
 ノーベル賞も、いまや政治の道具だ。アル・ゴア、オバマがノーベル平和賞って、誰が見てもおかしいのが解る。

それでも、チベットは、すばらしい国だ、ダライラマは、すばらしい人だと思っている人は多いと思う。

山奥の小さな国が、なぜあんなにも軍事力があったのか。
チベット軍に攻められた事の無い近隣の国はあるのか。
ダライラマ14世の名代職と、ダライラマ14世の父親との死因は。
ダライラマ9世から12世までの、寿命と死因は。
『死者の書』は、仏典でしょうか。
今のチベット人の生活は。
今の僧侶たちの生活は、仏教僧の生活だといえるのでしょうか。

それらを正しく理解している日本人は、何人いるのでしょうか。

参照
「カリスマを追うチベット」山口瑞鳳 『UP』2004年12月 
通号 386 東京大学出版会 pp,43-47 
『 チベット 』 上、下、山口瑞鳳著 東京大学出版会 


今の日本の仏教界が、魅力がないからといって、チベットやタイやスリランカの仏教をありがたがるのは、危険である。
 日本の仏教研究も、いままで、祖師をただ賞賛し心酔するものばかりで、現代にどう参考にできるのか真剣に考えてこなかった。
 そもそも、日本人は、いわゆる訳語としての「宗教」みたいなものには関心の無い民族なのである。生まれた時から、氏子であり、菩提寺があり、世間様とご先祖様と親族に守られて、無難に生きてこられた。そこに近代的自我という迷信が蔓延り、わけがわからなくなっているのが、今の日本人の現状だ。

 チベットを有り難いと思っている人たちへ言いたい。それはアメリカが中国批判のためにダライラマを担ぎ出しただけであると見抜いて欲しい。チベットは、けっして褒められた国ではない。民衆の苦しみの上に、上層階級の僧侶たちが貪っている。仏教としても、今となっては、まったく仏教とは認められない僧侶ばかりなのである。日本人と中国人とが仲が悪くなるように、アメリカが仕組んでいる洗脳である。さらに、正義の味方のアメリカという嘘を宣伝しているのである。

いや、私は、アメリカを嫌いなわけではない。
ただ、アメリカのそういう狡猾なやり方が嫌いなのだ。そして、まんまと騙されている日本人に、一言いいたいだけなのだ。

アメリカの策略にのせられて、中国と韓国と北朝鮮と日本が戦争になりませんように。
posted by ta meta ta at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お盆です。

お盆です。
年に二回、御霊が帰ってきます。( みたま )ね。「おんりょう」と読まないでね。

えっ、二回って、もう一回は、?

正月です。

正月とお盆と、年に二回、御先祖様が帰ってきて、家族と過ごすのです。

正月は、ご先祖様と家族と、みんなが集まって、一緒に新年を迎えるのです。
海外旅行なんか行っている場合ではないのです。
除夜の鐘は、僧侶に任せて、大晦日は、さっさと寝るのです。そして元旦にすがすがしく、一年を迎えるのです。これが正月です。

ああ、お盆です。今はお盆。お盆の風習は、入り組んでいますね。仏教、印度、中国、朝鮮、日本の慣習がごちゃごちゃになってる。

やはり、日本人は、「 ご先祖様崇拝 」で、宗教心は満たされるのかなと思いました。
宗教哲学も、一神教も、多神教も、根付かない。
ご先祖様と、世間さま。で良いのかな。
 しかしこれをあまり強調しすぎると、差別思想につながったり、悪いことも多いな。すでに、ご先祖さまなんて信じられないという人も多いし。

 欧米の影響で、伝統を捨ててしまったが、かといって、欧米人のような信仰も持てず、どうして良いか解らなくなっている日本人。
 欧米人も、神を信じられずに、理性、正義、科学を信仰してみたものの、やはり満たされずに、迷っている。
そして世界を席巻しているのが、カネの信仰だな。
欲望主義。人間は最悪の生物になった。

今後、私たちは、何を心の糧として、生きていったらよいのでしょうか。
posted by ta meta ta at 01:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月13日

ものぐさ精神分析を読む 15 一神教と多神教

宗教は、大きく二つに分けられる。
一神教と多神教だ。『一神教 vs 多神教』を読んで。

仏教は、どちらだろう。

阿弥陀を信じるとか、大日如来とか、法華一乗とか、曼荼羅世界とか、いろいろあるので、どちらか一方にはならないと漠然と考えられそうであるが、そういう浅い話をしたいのではない。

そもそも、一神教か多神教かは、自我のあり方を決めているもので、その人がどういう文化の中で育ったかに左右される。育ての親の影響が大きい。成人してから、色々と思想を学び、改宗しても、外面は変えることができても、心の根幹は変えることはできない。変えるとしたら、一度、人格破壊をするほどのことをしないと変わらないだろう。

ヒンドゥー教は、一神教と多神教とどちらとも取れる。バラモン教も同じ様なものである。釈尊の生い立ちが問題になるが、今のネパールの辺りの共和制を布いていた王国であったらしい。釈尊が一神教的だったか多神教的だったかは、解らない。


釈尊の哲学から考える。
 無常、無我、苦、無自性、ということを理解しても、そのあと、一神教的に生きるか、多神教的に生きるか、どちらもありえる。
一神教
 無我を理解して、この世の一切を「無自性」と見て、絶対他者としての一神を自我のよりどころとすることもできる。
多神教
 無我を理解して、自然の中に埋没し、自然の一切を神として自我のよりどころとして生きることもできる。

釈尊は、無自性ということは、弟子たちに学ばせたけれども、それ以上には、一神教と多神教とのどちらかを強要することはなかったと、私は考える。
 どちらを選ぶかは、生まれ育った素質の問題であるし、変えようとして変えられるものではないし、一神教にも多神教にも利点と欠点があるのであるから、「空」を悟りつつ、悪い面を退け、良い面を生かして生活したらよいのだろう。それが無我的な生き方なのかもしれない。自我は必要悪であるとは、岸田秀氏の言葉である。

また、一神教にしても、多神教にしても、何を信じるにしても、人は、聖なるものにつながっているという思いを感じられていないと生きていけない生物らしい。だから、いくらこの世は虚しいと言いつつも、聖なるものをよりどころとして生きていくほかないようだ。

ちなみに、空海は、一神教であったと思う。冬の高野山を愛するなんて、わざと厳しい人を寄せ付けない環境に身をおいて瞑想したいなんて、沙漠の宗教、一神教的である。また、日本人離れした発想、大学を創るというのも、当時の日本の多神教的社会に同化していてはできない発想だろう。その他の細かなことも、一神教的である。
「いつの日にか、大日の光を見ん」
大日如来は、完全に理念の仏であり、唯一神の条件を備えている。
 これらを、唐に来ていたバラモンに直接、伝授されたと思う。また、空海の家系が、一神教的な信仰を持っていた可能性もある。恵果も一神教であり、その一神教を継承できる弟子が中国国内の弟子の中にはいなかったと考えられる。それほど、当時の中国、朝鮮、日本には、一神教を身に着けている人が少なかったのだろう。
http://blogs.dion.ne.jp/kappappa/archives/9603119.html

『 日本人の信仰心 』 磯部忠正 著
『 空海入門―弘仁のモダニスト 』 竹内信夫 著
posted by ta meta ta at 04:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

v cube が、アマゾンで買える

144515312.jpg

以前、7×7×7の「Vーcube」を欲しいと書いた。
http://blogs.dion.ne.jp/kappappa/archives/8154372.html

アマゾンで買えるぞ

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%A8%E3%83%BC-VC-01-V%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96-%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3/dp/B003OIBDC4/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=toys&qid=1281630213&sr=1-1

本社表示 40ドル だから、送料無料で3500円はお買い得だ。

メーカーサイト
https://v-cubes.com/ecom/product.php?productid=16133&cat=248&page=1

日本語のパッケージになっているということは、他の種類も日本国内でどこでも買えるのかな?

あの、丸い「 ルービック360 」は、まったく理解ができなかった。
posted by ta meta ta at 01:51| Comment(0) | TrackBack(0) | ガジェット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1945年マニラ市民を殺したのは誰?

原爆を落とした理由に、もし、原爆を使わずに地上戦を行っていたら、連合国軍にも大きな被害が出たであろう。というのがある。

 わたしは、その見方はアメリカによって作られたものであると考える。
フィリピンでの戦闘を考えてみたい。
 先の記事のリンクの中で、
http://mikerosstky.spaces.live.com/blog/cns!65DFD4754018BC2A!4843.entry?&_c02_owner=1

 「一カ月間の戦いで10万人のマニラ市民が亡くなった。日本兵は約1万6000人が亡くなった。広島では7万8千人。もし、アメリカが日本本土に上陸して戦った場合、どれだけの犠牲が? マニラと言う異国で1万6000人の日本兵が死んだ。この一つの戦場で11万人の人達が死んだ。これを日本の本土で何回繰り返せば?原爆投下への判断の要素の一つであった事を覚えておかなければならない。 決して、原爆投下が好ましいと書いているわけではない。原爆投下の判断を下す要素の一つを明らかにしているだけだ。この背景でなぜ、”誤る”必要があるのか?正しい判断が下されたのではないか? MikeRossTky 」

 ということであるが、連合国軍側の死者の数が考えられていない。?そこが肝心なのですが、たぶん多くても数千人でしょう。
 あれ、おかしいなと思いませんか。壊滅させられる日本兵が、10万人ものマニラ市民を殺害した?
 こういう単純な数字の矛盾に気が付かないように教え込むこと自体が、嘘であることの傍証ではないでしょうか。アメリカはアメリカ国民に気づかれないようにそう教え込んでいる。
 10万人もの市民を1万人の日本兵が殺したわけではない。

 そして思い出すのが、イラク戦争です。
 テロリストと一緒に、イラク市民を皆殺しにしたのは、連合軍です。3千人ほどアメリカ兵も死んでいます。しかし、その10倍以上の市民が殺されていることでしょう。テロリストも殺し殺されていることでしょうが、そのテロリストの被害者が何人いるのかは解りませんが。

 要するに、連合国軍が、テロリストも市民も、一色たに、皆殺しにしたのです。

アメリカは、マニラでしたことを、イラクでもしているのです。
そして情報操作をして、事実を隠し、原爆投下を正義の行いだと国民に信じ込ませている。


だいたい、竹やりで、本土決戦の練習をしている日本人には、上から焼夷弾を撒き散らせば、そのうち降伏するのは、解りきったことだ。連合国軍には、戦死者なんてほとんど出ないのだ。

東京大空襲でも、10万人は死んでいます。原爆を使わなくても、それぐらい殺せるのです。

まさか、日本の被害を最小限にするために人道的に核兵器を使ったなんていうつもりじゃないでしょう。

遊び人の友人は、フィリピンから来るタレントさんに、たくさん貢いでいる。彼はいつも、むかし日本人が悪いことをしたから、その罪を償わされるように今、こうして俺たちが散々貢いでいるのさ。と、自分のふしだらな生活を正当化していました。欺瞞?
 彼女たちが、日本人を悪く思っていないことが不思議だとも言っていました。わたしもアメリカにいる時に、タイの僧侶が、日本がアジアを救ってくれたと言っていたが、本心から言っているのか、疑問に思っていた。
posted by ta meta ta at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする