2010年07月31日

ものぐさ精神分析を読む 11 聖俗分離と近代化

日本人の自我意識は、「村の掟」と「ご先祖様」に支えられていたから、神は必要なかった。
むしろ、特定の信仰を持つということは、村の掟を守らない、村の掟が通用しない、何を考えているか解らない、何をしでかすか解らない、信用できない、理解できない変な奴、ということにされてしまっただろう。そういう先入観が、いまでも日本人の心にあって、宗教というと、うさんくさいものという観念が先行するのだろう。日本人に信仰心が無いということの傍証にもなるかと思う。

日本人は、世間という共同社会に依存していて、またご先祖様に自己のルーツを託していたので、特に、神は必要なかった。出家者というのは、まさに世捨て人で、酔狂ではあるが、信仰の対象にはならなかった。インドにおけるシャモンへの信仰のようなものは、日本には生じなかった。だから托鉢は特別な行事でしかなく、日常の宗教的習慣にはなっていない。
 宗教家も、冠婚葬祭のときに必要なだけで、日常の信仰には関係なかった。それは、今に始まったことではないのである。仏教が日本に伝播したのも、加持祈祷とそのご利益が国家を安泰に導くという迷信によって求められたのであって、民衆の信仰の対象ではなかった。インドのバラモンの役割を日本では仏教僧が行っているだけである。思想もまったくバラモン教であり仏教哲学とは関係ないことばかりである。仏教は、お経を唱えてその見返りとして布施を受け取ることを禁止しているし、厄除けや星祭、節分などの土着の迷信を否定しているし、釈尊は弟子たちに葬儀に関わるなと遺言しているし、先祖供養もしない。具足戒には、お香を焚いてはいけないとある。それらはすべてバラモンの仕事である。

 日本が近代化に成功した一つの原因に、宗教的な社会構造があげられている。
『 日本人はどこへ行く 』 岸田秀対談集 p,216

聖俗一致の場合、聖が俗の近代化を阻んでしまうが、分離していると、俗だけで突っ走れる。アメリカの場合は分離しつつ、聖なることも熱心に行っている。さらに悪いことに、俗なる悪行まで聖なる裏づけがあるかのように偽っていさえいる。
 日本の場合、そもそも、仏教も儒教も、中国からの輸入であり、構造的にはじめから二重構造であったので、他のアジア諸国よりも抵抗なく聖俗の分離ができたと岸田氏は述べる。
 私は、さらに、そもそも日本人の心のよりどころが、世間とご先祖さまにあったから、その思いは、近代化して豊かな暮らしと子孫繁栄とを目指すという思いと一致したのであろう。近代化は、世間の共同体の発展とご先祖様信仰とに矛盾しなかったからだと思う。だから分離したはずの聖の部分は、アメリカのように後生大切にする必要もなく、意識することもなく、ほったらかしていられるのである。そして、プロテスタンティズムによる「契約」「義務」「権利」などの概念に希薄で、欧米人から見たら、ずるくて小賢しい奴らにみえるのだろう。
 さらにいえば、日本人にとっては、経済活動も真理の探究も、神を求めることの代替物ではないから、欧米人のように自己の全存在をかけた戦いではなく真剣ではないので、たいした発明もしないし、基礎物理学も発展しない。猿真似をして商品価値の高いものを作っただけ。商品価値が高いというのは、日常的で実用的であるということであり、神ではなく現実を求めているのである。日本人と欧米人とは、思考の方向が逆なのである。日本人で業績を上げた研究者は、日本人的な価値観から見たら、みんな変わり者であろう。

 ただ、村社会を残したまま、一神教的な近代化を受け入れた歪は、『 官僚病の起源 』 で岸田氏が指摘している如くである。

 また、「世間」と「ご先祖」の信仰が行き過ぎると、インドのようになるかと思う。それは、差別社会である。個人の自我のよりどころとしての信仰だけなら良いが、それが肥大化し拡大解釈されると、閉塞した差別社会になってしまうだろう。

 さらに、農耕社会で築かれた世間とご先祖様信仰は、会社勤めの都市型生活によって、崩壊してしまった。これは、近代化の弊害というよりも、社会構造の問題であり、このことを自覚して解決しようとしたら、いくらでもできることであろう。しかし、昔ながらの寄り合いや村社会を復活とかいうと、若い人は、「垢抜けない」「古臭い」と感じるのだろう。そんな現状の中、自殺やニートや精神病やカルトへの入信が増えるのだから、よっぽど昔ながらの村社会を見直したほうが良いと思うのだが。大人も若者も子供も、宗教家も政治家も社長も、猫も杓子も、近代化に毒されてしまっているから、気づきもしないのだろう。
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くろでめきんぎょ 二代目を探す

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これと同じ体形、同じ色のが欲しいと思ったら、なんだか流通していないみたい。

これが大きくなると、普通の出目金になったのかなあ。


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2010年07月30日

ものぐさ精神分析を読む 10 仏教学者批判

『 心理療法としての仏教 』 安藤治著 や、
『 仏教と精神分析 』 三枝充悳 岸田秀 共著 などを、
読んでいると、仏教は、執着を離れて、真実の自己を生きるのだとか、我執を捨てて、本来の生命とか、霊性とかに目覚めて、自分も世界もすべてが幸せになれる生き方ができるようになるのだとか、めちゃくちゃな妄想が語られている。
もちろん、そんなことを岸田秀氏が言うわけも無く、三枝充悳氏や安藤治氏が、そういうのである。

そんな都合のよい、真実の自己なんて無いし、それは神に代わる幻想に過ぎないというのが、岸田氏の意見である。
『幻想の未来』「真実の自己」

「霊性」なんていう言葉は、安藤治氏が主張している。余りに酷いので、数年前、法蔵館に意見を申し上げたが、いまだに返事が来ない。
 「何々性」なんていう言葉は、本質主義である。気をつけなければいけない。「自性、男性、女性、仏性、宗教性、道徳性、国民性、芸術性、人間性」などなど、形容詞や単なる概念もすべて、「真理、理性、永遠、悟り、解脱、穢れ、清浄、愛、慈悲、など」は、人間が生きていくために作り出した幻想であり、空であり、実体ではない。あらゆるもの、人間が認識して判断するものは、すべて、人間が作り出したイリュージョンであるということを見抜かなければいけない。

すべては、空であるというのが、釈尊の教えであり、
これが、釈尊の認識論である。
釈尊は、そういう認識論を説いた人である、だから、普通に、人間であるから、やはり普通に自我に頼って生きていたし、苦しみもしたし、悩んだりもした。

釈尊も悪戦苦闘したわけです。
初めての説法の時には、失敗して理解してもらえなかったし。
なかなか釈尊の考えを理解できないコンダンニャという比丘に、一生懸命教えていて、やっと理解できた時に、コンダンニャが悟れたと言って、みんなで喜んだり。
 苦行はやめろと、苦行をしている弟子たちに言うのだけれど、なかなかやめないから、しょうがない、放任したり。そのうちに戒律を厳しくしたほうがよいと主張する弟子たちが集団離脱してしまうし。
 釈尊が托鉢に出かけた時に、村の人たちが意地悪をして、だれ一人もご飯を差し出さなかった。釈尊は、まる2日間、断食になってしまうわけですが、こんなこともあるさと、この空腹を楽しもうなんていってやり過ごすわけです。最後に故郷に帰りたいと思って旅立つわけですが、旅の途中で野たれ死んでしまうわけです。

 釈尊も、宗教家として生き抜くために苦労したわけです。出家者としての自我を確立して遂行するために努力したわけです。嫌なことも耐え忍んだり、思い通りにならないことを我慢したりしなければならないのは、すべての人間と同じです。なぜなら、自我は作り物で、まぼろしのようなもので、他者との関係の中で形作られる事柄だからです。それでも、自我を持っていないと人は生きられません。自我は空であると知っていても、自我を放棄してしまったら、精神病で、日常生活もできません。

『心理療法としての仏教』で、安藤治氏は、ただユングの考えを仏教的な用語に置き換えて、言い直しただけである。宗教性や個性化の理論そのままである。そしてそれは、仏教ではない。だいたい、禅定を研究するなら、本家本元のインドのヨーガを研究したらよいし、仏教に混ざって伝えられたヒンドゥー教の教義を仏教だと考えて心理学と比較しても遠回りです。
 真実の自己を求めるのは、インドの思想です、それを否定したのが仏教です。なのに、真実の自己を求めるのが仏教だとか禅だとか言って、心理学と比較されても、混乱をまねくだけです。
心理学を専攻している人が、仏教の基礎知識を学ぶには何か有益かもしれないが、そならはじめから仏教入門の書籍を読んだほうが正確だろう。仏教を専攻する人も、まともな心理学の書籍を読んだ方がよい。

だいたい、真実の自己に目覚めて、自分と世界とになんの矛盾も感じず、毎日楽しくて仕方が無くて、やりたいことをやりたいだけやって、それでいて誰にも迷惑をかけずに、世界平和と無限の愛を生きているなんて人を知らない。柴又の寅さんだって悩むのですよ。悩まないスーパー寅さんがいたら、えらく迷惑だな。
 安藤治氏は、ガンジーとマザーテレサを覚者と言って霊性に目覚めた人?で禅師と同じだと言うのですが。もし、ガンジーが覚者なら、断食もしなくて済んだだろうし、アンベードカルと対立もしなかっただろうし、ガンジーの家族も幸せになっていたであろう。ネルーだって、あんなことにならずに済んだだろうし。
もしマザーテレサが覚者なら、神が見えないと告白もしなかったであろう。偉業を達成した人々も、私たち凡人と変わらず苦しみぬいて、自己矛盾と世界の矛盾とに立ち向かっていたのである。

また三枝氏も、何度も岸田氏に対談中に説明を受けるのですが、自我を捨てて、執着を捨てて、仮の作られた自我を捨てて、本来の自然な姿を生きることができるのが悟りだと言い続けている。自然とか、ありのままとか、本来の姿とか、それは仏教でもなければ、悟りでもない。すべては無自性なのである。


仏教を学ぶと、
自己実現だとか、禅を修行したら自由な境地で、真実の生き方ができるとか、
そんな、間違った考えや書籍が多いので、私の意見を書いてみた。
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小さな睡蓮が咲いた。

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昨年は、8月8日、

一昨年は、9月16日

今年は、早い。

年によってこれほど違うのですね。
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2010年07月29日

メダカの水槽 緑の水

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メダカの水槽に、二種類ある。

緑色になった水である。この中に水草を入れても、とろけてしまって育たない。メダカは元気だ。稚魚がたくさん生き残っている。

透明な水、水草は、よく育つ。メダカも元気だ。

どちらが良いのだろう。
どちらでも良いか。
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ものぐさ精神分析を読む 9 慈悲

前回に引き続き、『 幻想の未来 』 「「甘え」の弁明」 から。

友情を考える場合、自己放棄衝動を直接的に行う日本式と、神を媒介する間接方式の西洋方式。

そう考えると、仏教の「慈悲」とはいかなるものか。

中村元著 『 慈悲 』 サーラ叢書 を見てみよう。
p,93
「慈悲の実践とは、他の視点からみるならば、自己と他人とは相対立している場合に、自己を否定して他人に合一する方向にはたらく運動であるということができる。」
といい、自他不二の倫理と言っている。それは、両者が、「空」であるという理論に基づいている。

また、p,125
「ロマン・ロランは、次のように批判する、『真の慈悲、それは実際は、ラーマクリシュナにとっては、すべての人の中に宿る≪神の愛≫である。なんとなれば神は人間の中に化身するからである。もしも人間の中の神を愛するのでなければ、人間を充分に愛することができない。したがって人間を助けに来ることができない。逆にいうならば、各人の中に神を見ない限りは、十分に神を知ることができない。』」

 ラーマクリシュナは、神を媒介する以上、神を知らなかったら他者を愛することができないという理論になるが、ロマン・ロランは、それでは、本当にその人を愛することにならないではないかと批判する。神を媒体にして間接的にその人を愛するよりも、直接その人を愛した方が良いのではないかということであろう。
 どちらが高尚かとかいう問題ではなく、ラーマクリシュナは、西洋的な間接方式であり、西洋人であるロマン・ロランは、日本的直接様式を評価している。ロマン・ロランは、特異な思想家であると思われる。あるいは、日本的な何らかの影響か知識があったのかもしれない。


仏教の慈悲が、日本的な直接方式であることは、注目に値する。


まず、人が直接方式になるか、間接方式になるかは、その家庭の教育に依るので、釈尊の家庭がそういう教育の伝統を持っていたということが推測される。文化や教育は、人格形成という形をとって母から子へ伝承されていくものだから、変えようと思って変えられるものではないのだから。
 釈尊の「釈迦族」は、アーリア系でなく、ネパールやもしくは東南アジア系であった可能性があるとは、昔から指摘されているが、日本人と同じルーツかもしれない。だから同じ様な愛の概念を持ったと考えられる。また別の考えでは、西洋的な愛を打ち破って、日本的な愛に気が付いて、それは悟りともいいたくなるような大きな気付きだったのかもしれない。
 また、釈尊の母は、釈尊を出産した後にすぐに亡くなっている。その後の釈尊の生い立ちにも大きく影響したことであろう。

 また、空という世界観から、直接方式の慈悲が実践されるというこの事態、これは、とても日本的だと思う。もしかしたら、日本の人情だとか、世間とかいう生き方は、釈尊の空と慈悲とを実践している姿だったのかもしれない。日本は真の仏教国ということになるが、はたして?
 まあ、そうだとしても、それ以外の悪い思想も入ってきているし、弊害も多い。そもそも釈尊は、超個人主義である。世間とは対極にある出世間の生き方をしたのであるが、これも後代の付加ということか。

人間だけでなく、一切の生き物に同情し憐れんで、慈しみを垂れる。これも、仏教独自だろう。

後の、密教になると、大日経系の経典では、「胎蔵生」が説かれ、万能な母的存在として大日如来が説かれ、それとの一体感をめざす修行になっている。これは、まさに、自己放棄衝動で、失われた万能感、全知全能感を回復する瞑想法である。


慈悲の概念と日本人という点から色々なことが考察される。
もう一度、この観点から洗いなおす必要があるだろう。仏教を手がかりに、新しい道が発見できるかもしれない。欧米化でもなく伝統に固執するのでもなく。

まあ、日本人が、勝手に仏教を日本人的に解釈しているだけなのかもしれない。本来の慈悲の概念は、中村元氏が言うようなものではなかったというのが当たっていそう。

要するに、日本人が漠然とこれが仏教の慈悲だと信じてきた事柄は、実は、仏教には何も関係なく日本人の固有の人情のあり方だったのだろう。原典による仏教の慈悲を検証しなおす必要がある。しかし、これは盲点である先入観を捨てて、原典を読み直せなければならないが、完全に先入観無しで何の尺度も無く原典を読むと言うことは不可能なのである。
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ものぐさ精神分析を読む 8 幻想の未来

『 幻想の未来 』 岸田秀著 青土社 1993年
岸田秀コレクション

「「甘え」の弁明」

p,66
「 日本文化は、甘えを中心として構造化されている。この日本文化は、世界において特殊である。だからか、世界の人たちとつき合うためには日本を欧米化しなければならないという考え方(これもまた日本人特有の対人恐怖の発想であるが)、それは、無理であろう。」
p62
「甘えを否定されれば、日本人は敵対関係しかもてなくなるであろう。」

わたしは、ずーっと、日本人の自我意識が、どの国のとも違うとは考えていたが、何が原因でどのように違うのか解らないでいた。「甘え」はその違う最も有名なことだけれど、その説明に納得できるものも知らなかった。

だいたい、西洋的、東洋的と分けることはできない。
インドの思想は、西洋哲学に通じる。インドヨーロッパ語族であることからも推測できる。言葉で思考する以上、言葉の構造がそのまま思考に影響するのである。

中国も、どちらかと言うと、西洋的な「我」の持ち主であろう。文法が英語と同じ様でしょ。ただ、一神教のような神を信じてはいないようで、西洋の自我とは少し違うようだ。それでも、西洋的な自我意識に近いだろう。というか、日本だけが、特別な自我をもっているのである。(探せば、日本人に近い自我意識を持っている民族もいるかもしれないが。)

日本人の自我意識は特別だ、と思いつつ、頭の片隅に置きっぱなしにしてあったのであるが、この 『 幻想の未来 』 を読んで、いくつか疑問が解消したので、ちょっとうれしい。

また、日本に、戒律が根付かない理由と、哲学が根付かない理由とについて、

結局、文化というものは、本能によってはつながることができない人間と人間とのつながりの根拠をどこにおくかの問題であるが、日本人がその根拠を神やその他何らかの普遍的原理に求めなかったのは、伝統的にそういうものを信じておらず、腹の底では馬鹿にしているからである。しかも、それがあまりにも当たり前のことなので、馬鹿にしているという意識さえないのである(日本には「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土に往生できるという浄土宗なる宗派があるが、宗教というものを軽く観ているというか、よほど馬鹿にし切っている日本人でなくては、このようなことは思いつかないであろう。キリスト教においては救済のためにどれほどのことが要求されるか、しかもそれらの要求をすべて満たしても、たとえばカルヴィニズムの場合のように、救われるとはかぎらないこととくらべてみれば、よくわかる。日本人はそのようなキリスト教さえも、「信じるものは救われる」ということを強調して、浄土宗のようなものにしようとする。)。そういう意味において、日本人は根っからの相対主義者であり、世俗的である。日本人のそういう態度を改めさせることができるのであろうか。日本人に、今まで馬鹿にしつづけてきたものを、心機一転、尊敬させ、信じさせることができるであろうか。それは、欧米人をたとえばアニミズム信仰に統一するのと同じく不可能であろう。
 要するに、日本文化か欧米文化かの問題は、人間と人間とのつながりの根拠として、母子関係という幻想を信じるか、神という幻想を信じるかの問題である。どちらも幻想なのだから、まさに文化の究極の根底は「とにかくこっちを信じる」ということでしかないのである。(中略)「中間的」文化が成り立つわけがない。
pp,67-69

日本文化は、「母子関係の自己放棄衝動を直接的な人間関係のなかに温存して甘えとして形づくる」p,65
欧米文化は、「自己放棄衝動を神に押しやり、対人関係では、自己拡大衝動を全面に出す。そして他者との友情は、いったん神を媒介にした自己放棄衝動による。」

 神の概念が無ければ、契約とか、義務とか、自由とか権利、とか人権という概念は成り立たないし、理解もできないのである。そして、日本人は、そんな神を信じていないし、いまだかつて信じたこともないし、信じないのが日本文化の中心にあるのであるから、変えようが無い。変える必要もない、変えようとしても変えられるものでもない。

戒律を守らない仏教の僧侶がいるのも、日本だけである。仏教国といいながら、経典を理解して日々の糧にしようという人は、稀有である。仏教に限らず、他の宗教の宣教師も、日本に来ると、結婚させられ俗人と同じ生活をさせられるらしい。
 内村鑑三も、信仰が根付かないことを嘆いて、苗を植えても、たちまち腐るといっていたと思うが、典拠を失念してしまった。(ぐうたら生活入門かもしれない)

バチカンみたいな(Vatican pedofilo)状態もどうかと思うが。

夏目漱石に岸田秀氏も言及しているが、私は、
『 行人 』 を思い出した。

空海のような宗教的天才が現れて、「絶対神としての大日如来」をいくら論述しても、弟子たちは、「南無大師遍照金剛」と唱えるだけになってしまった。弟子が無能だったということではなく、日本の文化には合わなかったのであろう。T.P.Kasulis のような人が、欧米に空海をひろめたら、受けるかもしれない。


いま日本に生きている人々は、みな、「近代的」な教育を受けてきている。また近代的な価値観を良いものとして受け入れている。しかし、その近代化が、成功するはずは無く、現実には、国も方向喪失、外交は混迷。個人では、自殺者と精神病者が激増。若者を教育できる大人もいなければ、生きる方向を失った若者が増産されていく。日本は崩壊寸前である。もちろん神が死んでしまった欧米でも事態は似ている。

昭和生まれの大人たちが、もはや、日本の伝統も知らないし、それに代わる文化ももちろん持っていない。
なかには、日本文化に執着する人もいるが、どこか嘘臭いし。

 近代自我も築けず、伝統的な価値観も知らない人々ばかりになって、そういう人々は、たとえば労使関係の場合にも、世間的な人間関係の場合にも、自分の都合にあわせて、欧米的な判断と、日本的な判断を使い分け、その基準は、自分の利己的な欲望であるから、ただのわがままを正当化しているだけになる。正義とか罪の尺度を持っていないから、どこまでもわがままを通して、気が付くことは無い。そういう人が人を雇い、あらゆる組織の上層にいるのだから、日本が狂っているのは当然である。
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2010年07月28日

戦争好きなアメリカ

北朝鮮相手に、戦争をしたいらしい。

戦争でない有事は無い。


米政府高官、朝鮮半島有事における日本国内の基地使用に自信
http://www.afpbb.com/article/politics/2743722/6018401

哨戒船沈没も、アメリカと韓国の自作自演かもしれない。

北朝鮮相手の戦争をはじめて、どさくさに紛れて、何をするか解らないアメリカ。

日本は、どうする。
おとなしくまたカネと物資と基地を、はいどうぞって、差し出すのでしょうか。

拒否したら、「また原爆落とすぞコラー!」と言ったところでしょう。

ジャイアンに傀儡にされるスネオ。

下手をすると、戦争特需どころではなく、日本が戦場になってしまう。
そして混乱が収まるころ、日本は、State of japan
になっているかも。

日本州 exclamation×2


もちろんアメリカにしてみたら、平和な神の国を建設するための布教活動のようなもので、野蛮な日本人や朝鮮人に神の愛の世界を教えてやろうと思っているのだろうけれど、大きなお世話である。ありがた迷惑である。私たちは、ネイティヴアメリカンではない。
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2010年07月27日

ものぐさ精神分析を読む 7

『自我の行方』について。

「自我は、必要悪である」

「自我は、自己の一部でしかないが、自我は全てであり絶対であると思っていないと不安で生きていけない。」

わたしは、人が10人いたら、10の常識があり、みんなそれぞれ、自分の世界を生きているだけだと思っていたから、自分の考えを人に押し付けようと思ったこともないし、他人から誹謗中傷されても気にしないでいられた。でも、この考えを推し進めると、人は理解し合えないという所までいってしまう。それでは、あまりにも寂しいではないか。

「唯幻論」私も貴方もまぼろしだというのなら、理解し合うとか、心が通うとかいうことは、やはりそれも幻なのか。地球の生物とは、なんと孤独なのだろう。
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2010年07月25日

ものぐさ精神分析を読む 6 ニヒルについて

対談という形は、岸田秀氏はよくやる形だ。
『 仏教と精神分析 』 では、三枝充悳氏との対談であるが、まったくくだらない内容になってしまった。三枝氏が対論者として浅学すぎた。
 今回は、八木誠一氏との対談で、
『 自我の行方 』 である。春秋社 昭和60年 増補版

結論から先に書こう
唯幻論やニヒリズム、または無我説で、価値や神、自我が否定されるのが嫌な人々が、唯幻論やニヒリズムや、仏教哲学を歪曲し誤解して、難癖をつけている。それが上記二冊の書籍である。

以下は、ダラダラと、理由を書いてみただけである。


ニヒルについて、面白い文章があった。
仏教の無我ということを説くと、それはニヒルだと言う反論がある。驚くことに、仏教大学の教授からこういう反論が出る。しかも、70過ぎた私立大学の教授から、40代の若い講師のような人まで、同じ様な反論をする。

そんな反論をする人の共通点は、
「宗教は善いもので、社会に役立ち、人々の幸せに貢献する。」という思いをもっていることである。
そして、ニヒルと言う言葉の意味を正しく理解していない。
 そもそも、ニヒルとは、絶対的な神を信じられないことであるから、はじめから絶対的な神なんていう概念を持っていない人には、ニヒルなんてありえないのであるし、ニィーチェ自身はやはり最後までキリスト者であったと私は考えている。

 それなのに、なぜ、宗教系の学者はニヒルを嫌がるのかというと、八木氏のこんな文章に出くわした。

 「 自我を壊して、新しい自我ができないと、ニヒルになってしまう。常に新しい自我を作り続けるのが宗教的な生き方である。それを、無相の自己、本来の自己、自己本来の面目、無位の真人、という。」pp,40-50 要約

八木氏の考えでは、自我の壊れた状態、あるいは、自我の無い状態が、ニヒルだということになる。こんなばかげた解釈は成立しないので、岸田氏は、

 「自我の無い状態や、壊れた状態は、精神病です。」

とはっきり指摘する。

八木氏は、神を信じられない状態をニヒルであり、自我の壊れた状態であると考えているようだ。そうであるから、まともな自我のある人は、神を信じるのが当然であり、神を信じる生き方こそ、唯一の正しい人間の生き方であるという結論になる。神を信じなくても、まともに幸せに社会生活を営んでいる人は大勢いるのに、認めたくないようだ。

 この八木氏の考えは、無我を認めたくない仏教学者にも当てはまる。世の中に役に立ち、一般人の希望になり、なんとなく有難い仏教、先祖供養と宗教儀礼と、有難い宗祖の教えを信じて正しく生活していくと幸せな宗教的な生活が送れる、という思い込みは、なんとなく有難い仏教を信じる人でないと救われない。これこそ宗教であり、仏教なのだと。

 八木氏も、無我を認めたくない仏教学者も、共に人間社会のなかで、人間がいかに幸せになるかということが問題になっているだけなので、そういう理論にならざるをえない。そしてそういう人達が書く書籍はみな、一般受けする有難い教えの集積でなければならないから、なんとなく世俗的価値観を否定するような、なんとなくニヒルっぽいようなことは、毛嫌いされるのである。宗教はすばらしい、宗教的生活はすばらしい、だから私の行っている学問も、価値があり、一般人に受け入れられ、重要なものなのだと、八木氏も無我を認めたくない仏教学者も、思い込みたいし、他人にもそう思っていて欲しいのである。だから、ヒステリックに、ニヒルを批判するのであろう、自分の存在が揺らいでしまうから。自分の研究や書物が無為なものにされてしまうから、恐怖なのであろう。


岸田秀氏の「唯幻論」は、正しいだろう。
その唯幻論に従えば、宗教もこの人生も、幻であり、無価値なものにされてしまう。これを認めたくない人達の悪あがきの書物である、『仏教と精神分析』の三枝氏も、『自我の行方』の八木氏も、悪あがきを露呈してしまった。

これらの出版をコーディネートした当時春秋社の岡野守也氏も、悪あがきの人達の仲間である。

無価値な人生を、無価値なまま認めるのは苦痛なので、宗教に限らず、あらゆる概念が考え出されたのではあるが。
 そして本来、仏教に関しては、その無価値なことを無価値であると見抜くことに、随煩悩からの解脱が説かれるのである。キリスト教も本来はそういう教えであったのではないかと知りもしないで憶測するが、後代の宗教学者が、保身のために教義を歪曲してしまったのだろう。
 2500年前よりも、どんどん、人は、虚構の世界に縛られるようになってしまった。

 仏教は、全ては虚構であるという教義を内にもっているので、唯幻論と抵触しないと言うか、合致する。しかし、一神教は、神が幻であるというのは、認められないのであろう。また、阿弥陀仏も浄土も方便であるのに、その方便であるということを認めたくない自称仏教学者が多すぎる。無我を正しく理解できない仏教学者なんて、仏教学者ではない。
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2010年07月24日

ものぐさ精神分析を読む 5

アメリカの、民主主義の正義という偽善と欺瞞に気が付いてしまった僕たちは、反米でもなく、迎合でもなく、鎖国でもなく、自分たちの生き方を確立しなければならない。もはや、70代の老人でさえ、戦後教育で腑抜けにされているのだから、現代日本が混迷して当然である。


民主主義国家同士は、戦争をしないから、世界の全ての国は、民主主義になると良いとは、丸山茂徳氏が『地球寒冷化』でいっていたこと。
しかし、アメリカが非民主主義国家に戦争を吹っかけているだけのことでもある。アメリカが関わると、ろくなことは無い。イランをつぶそうとイラクに武器を与えておいて、いざフセインが、原油の決済にドルは使わないといったら、大量破壊兵器があると言いがかりをつけて、潰しにかかる。ああ、これでは反米の意見だな。
 それにしても、北朝鮮問題で、アメリカがおせっかいをしだすと、日本も韓国も、アフガンやイラク、ベトナムの覚悟が必要になるだろう。
 巻き込まれたくないねえ。韓国も日本同様に、拉致問題があるのだから、その三国で平和的に解決したいのである。アメリカがかかわってくると、まとまる話もまとまらなくなる、そして戦争になってしまう、それがアメリカの魂胆なのだろうけれど、アメリカは引っ込んでいろと、日本と韓国で共同声明を出せないものであろうか。
 どうせ、哨戒船沈没も、アメリカの自作自演だろう。グアム移転問題の時に沈没騒ぎ、あからさま過ぎる。誰が見たって解る。違うかな?

『 日本がアメリカを赦す日 』 文春文庫 岸田秀著

英訳も出版されている。
Place For Apology: War, Guilt, And U.s.-japan Relations

http://www.amazon.co.jp/Place-Apology-Guilt-U-s-japan-Relations/dp/0761828494/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=english-books&qid=1279976752&sr=1-2
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ものぐさ精神分析を読む 4 資本主義と金銭

世の中、ふてぶてしい人間の方が、評価されたり、金儲けがうまかったりする。

正しい人間より、悪人の方が強かったりする。

せいぜい、「水戸黄門」でも観て、慰めるしかない。

だからと言って、「僕は優しくて正しい人間だから、いつも損をしてばかり。」なんていう、ナルシストに陥るのはたやすい。ナルシストを徹底するのは大変なことではあるが、なんとなく陥るのは、誰でもできる。

お金至上主義に、全てが毒されてしまった。

かといって共産主義も、消滅するはずの共産党が、消滅しないで、国そのものが消滅してしまった、ソ連。

国のあり方は、そのまま個人の生き方に直結する。

「 マネータントラの時代 」 と名づけたい。有料

子供を生むのも育てるのも、カネ。
結婚もカネ。
老後の医療も、カネ。
葬式まで、カネ。

食料が余り、エネルギーが余り、土地も時間も余っているのに、餓死をする人がいる。戦争をする人がいる。
こんな世界は狂っていると感じない人の方が、正常なのだろうか。
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2010年07月23日

ものぐさ精神分析を読む 3 統合失調

分裂病、統合失調症について

ある程度、薬で抑えられる。

遺伝か、生活史か。

岸田秀氏は、完全に心の問題だと言う。
木村敏氏も、心の問題だと言う。

河合隼雄氏は、どちらとも言っていない。

薬で完全に治すことができるという医者もいる。
カウンセリングと、薬とを併用するのが一般的だろう。

岸田秀氏の場合、母親に原因があった。それに気付き、自己診断によって乗り切ったのも、母が死んだ後だ。

今の病院、あるいは、宗教の役割として、欝、統合失調、などの心を病んだ人の駆け込み寺というものがあると思っている。

何が言いたいかというと、欝も、統合失調症も、家庭の病理だと思っている。特に、母親の役割は大きい。

たとえば、息子が統合失調症になった場合、薬を処方されて、家庭で療養ということになるだろう、そこで、母親が、改心して、自分が悪かったと気が付いて、息子に対する態度を改められるようなら、そのぐらい自省的で洞察力のある人なら、はじめから息子は発病しなかった。(本当に母親が生まれ変わって、息子が快方に向かった事例はあるが稀である。) だから、家庭に返しても、母親は、自分は悪くないと自己正当化するだけで、ますます息子は悪化させるだけだろう。むしろ、かろうじて一般人として生活している母親こそ、カウンセリングを受けなければならないだろうし、その患者の父親や兄弟も問題を抱えている場合が多いだろう。一番弱かった子供が発病してしまっただけなのである。家族の病理を一身に背負って。不幸にして鈍感な家庭に、繊細な心の子供が生まれてしまったということ。

 だから、欝でも統合失調症でも、もとの家庭に戻してはいけない。もし戻すなら、本当に母親や家庭が心を入れ替えているかどうか、担当医が見極めなければいけないだろう。ソーシャルワーカーの力量が重要なのである。

 息子が病気になって、お祭り騒ぎで病院に来る親なら、まず、家庭に返してはいけない。非日常なのは解るが、それでハイになってしまう親なら、先ずその親に息子の病気の原因があるのだから。てきぱきと入院の準備ができる親も失格である。ふさぎこんでしまって、寝込んでしまうような母親なら、息子を預けられる。矛盾しているようだけれど、心とはそういうものである。

 ほとんどの親が、統合失調症になった息子をよけいに悪化させてしまう。そして嘆き悲しむ自分に酔っていたりする。中には、厄除けだとかの迷信に走ってしまう人がいて、寺院が助長したりする、最悪だ。これも、自分は悪くない、他に原因があるという発想なのだ。
 だから、欝と統合失調症、などなどの心を病んだ人の治療の場として、寺院が必要なのである。暖かい人間関係、本当の信頼関係を築ける環境。だから、そんな寺院には、本当の僧侶がいなければいけない。専門医のサポートも必要だろう。ソーシャルワーカーの協力も必要だが、臨床心理士になれなかったから、ソーシャルワーカーになりましたみたいな人ではダメだ。

コンビニよりも多い寺院が日本にはある。
そこに、まともな宗教家が、まともな実践をしようとしているなら、欝と統合失調症の人を受け入れる体制を整えたらよい。自殺者の供養をしている暇があったら、自殺しそうな人に、真剣に手をさしのべよ。

バカexclamation×2
高野山の自死者慰霊法会
http://www.koyasan-u.ac.jp/modules/news/article.php?storyid=210

わたしなら、参列者にこういってやる。
「 本当の、自殺の原因は、なんだったと思っていますか。」
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ものぐさ精神分析を読む 2 托鉢

托鉢といえば聞こえは良いが、乞食である。
残飯をもらい、野外生活。

仏教を徹底すると、必然的に乞食の生活になる。
と、わたしは思っている。

だからといって、乞食の生活をしなくても、仏教哲学は論じることはできそうでもあるが。

よく、仏教は人の道を説いたのであって、極端な生き方は仏教ではない。という人がいる。それは私は間違っていると指摘する。
 人間が当たり前だと思っている価値観は、実は人為的に思い込まされた幻であるというのが、仏教の認識論であり、それを見抜いたなら、出家しないではいられなくなるのが当然の成り行きなのである。とはいっても、乞食か、、、。
 戒律も、たとえば性欲も、精神発達にしたがって人為的に作られた欲望の形であり、この欲望の形成に成功した人間だけが、子孫を残して生きてこられたのであり、けっして高尚な人間の営みということではないのである。食事にしても、必要な栄養とカロリーを摂取するためではなく、手を加えたり、大枚をはたいたり、異常な行動である。衣類も然り。金銭は言うまでも無い。
 それらがすべて、虚しいもの、空虚なもの、幻、であることを知る。世俗の価値あるものという全ては、ことごとく、馬鹿らしいものなのである。国家、民族、文化、イデオロギー、などなども、空なるものである。

こんな話しを他人にすると、そんなこと言ったら、人類は滅亡してしまうじゃんと言われる。人間の価値はなんだと考えているのかと。
 価値なんて無いよ。と答える。価値があると言う考えが、もうそもそも世俗の洗脳なんですよ。戦時中は、人の命なんて、紙切れよりも軽かった。戦後、誰が言ったか知らないが、地球よりも重くなった。
 命の重量はどれだけなのか知らないが、命という概念も、それが概念である以上、概念でしかないのである。だからって、人殺しをしちゃいけないけれど。
 心臓が止まって、細胞が酸化したり細菌が繁殖したりして、肉体が腐敗したら、死ということになるのだろう。心臓が止まっても、すぐに動き出したら、生きていける。

 それにしても托鉢か、、、。
残飯をもらって過ごす乞食かな。
posted by ta meta ta at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

打ち水で気温を下げる?

テレビを見ていたら、打ち水をしている市町村?が、報道されていた。

効果がある、すばらしい、温暖防止、だそうな。


湿度が低ければ、32度でも、快適に過ごせるのだけれどなあ。水をまかれると、よけいに息苦しいと思ったのです。

だいたい、撒いている水は、水道水を散水車に積んだものでしょ?その水を作るのに、どれだけエネルギーが使われたのでしょうか。撒くのにだって、散水車使っているし。
 貯水池から汲んできた水を撒いていたら、臭くてかなわんなあ。

まあ、打ち水をしても、一時的に湿度が上がったり、気温が下がったりするだろうけれど、やっぱり一時的だろう。焼け石に水、、、。

行政というものは、無駄なことばかりしている。
役人と予算を削減してほしい。

"打ち水大作戦"の大間抜け 
有明海・諫早湾干拓リポート編集長 古川清久(自治体職員)
"打ち水"という小さな"捨て水"

http://env01.cool.ne.jp/frommanager/utimizu.htm
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2010年07月22日

35度に慣れる

三日前は、昼間に32度を超えたら、暑くてたまらなかったが、

今夜、室内32度、快適だ。

慣れとは、こういうことか。(湿度も違うかも)

急激に水温の違う水に入れられると、魚は参ってしまうのは、理解できた。体験によって。しかも、水と空気とでは、ぜんぜん比熱容量が違うので、水温で数度違うと、致命的なのですね。
 すこし、魚の気持ちが解ったよ。わたしは恒温動物だけど。

で、明日から、一週間は、35度を超える日が続く。
こういう年は、8月になって急に涼しくなったりするから、たぶん、この一週間が峠だろう。土用丑とはよく言ったものだ。(新暦と旧暦との違いはあるだろうけれど)

晴れ暑さ対策晴れ
水で濡らしたTシャツを着て、扇風機にあたる。
ひんやり、気持ちよい。雪

エアコンをつけても良いのだが、夏を満喫しなくて良いのかと、損した気分になる。
 机の下に、盥に水を張って置いても良いな。
 風鈴も二つさげた。


以前にも同じ様なことを書いた。
http://blogs.dion.ne.jp/kappappa/archives/7475065.html

明日とあさっては、熊谷38度の予報、ということは、たいがい2度は高くなる(自動車とアスファルトとエアコンの廃熱で)ので、40度だから、外の小さな水槽のメダカは、対策をしないと、ダメだな。いい気分(温泉)
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2010年07月21日

ものぐさ精神分析を読む 1

岸田秀著 『ものぐさ精神分析』を読む。中公文庫版

『唯幻論物語』文藝春秋 文春新書

『フロイドを読む』河出文庫

など。

仏教哲学との類似は指摘されているので、
『仏教と精神分析』三枝充悳との共著
を読んでみたが、三枝氏が、的外れなことばかり言うので、まったく岸田氏のよさも引き出されない。
まともな僧侶との対談が出版されると良いな。

現代の宗教家について思ったこと。
心の専門家としての本当の宗教家がいない。

岸田氏の唯幻論でも指摘されるように、食欲、性欲、名誉欲、国家権力、自我意識、所有欲 などは、「空」なのであって、宗教家は、そういうものが「空」であることを知って、遠ざけるのが当たり前の姿なのである。ようするに、戒律を持っていて当然なのであって、しょうがなし昔の習慣だから戒律を守るのではないのである。
 本当の宗教家であれば、世間のあらゆる観念から自由になって、世間から脱出した、「出家者」「世捨て人」「隠遁者」に、自ずから、なってしまうのである。これができない人は、宗教家ではないし、形だけ宗教家の姿をしていても、宗教家としての実力は皆無である。だから、世界中、本来宗教家が行うはずの宗教の役割は、何一つ行われていない。

ある僧侶は、資本主義を否定し欧米化を否定しているが、共産主義や日本文化主義?みたいなものに熱狂している者もいる。これもおかしなものだ。そういう「何々主義」とかが、そもそも世間的な概念なのである。現代を憂えて、昔は良かったと妄想するのとたいして変わらない。そういう資本主義を否定する僧侶が、寺院で働く人に対して、最低限の雇用の法律さえ無視し、さらに人情も恩義などということも無視して、やりたい放題の人もいる。本人は、自分は立派な宗教家だと思い込んでいるので、罪悪感もないし、全て相手の人間が悪いのだとしか考えられないでいる。コンプレックスを世間の人々にぶつけているだけ、スケープゴートにされた一般人は、気の毒でならない。全てを否定したつもりで、ただ、自分勝手にやっているだけなのである。最悪である。ただ訴訟にならないのは、一般人が、馬鹿な僧侶を相手に裁判なんかを起こしても虚しいだけだと思っているからにすぎない。
 ミイラ取りがミイラになることは、宗教家も気をつけなければならないという教訓にはなる。カネと名誉と性の欲は、とても手ごわいのである。

しかし、岸田氏が言うように、全ては幻だとして、その原因が、不完全な自己と、けっして満たされることの無い欲求であり、その代償として、さまざまな価値が作られてきたということなら、それらの欺瞞を全て見抜いたとして、それらの思い込みから自由になれるのだろうか。
 自由になれたとして、どんな生き方が待っているのか。
 釈尊は、自由になれたのであろうか。
 それとも、自由にはなれずに、釈尊であっても、絶対他者としての神を信じていたのであろうか。もちろん、そういう神を信じていたとしても、けっして口には出さなかったであろう。
posted by ta meta ta at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヒートアイランドと戦う

今年の夏は、昨年よりも暑いというわけでもないのであるが、なぜか暑い。

なぜかと思ったら、隣の家が新しくエアコンを設置していて、その排熱が、私の部屋に直接入ってくる。あせあせ(飛び散る汗)

こりゃ、あついわなあ。トホホ。

だからといって、私も24時間アエコンを使い続けたら、ヒートアイランド現象に拍車をかけてしまう。地球防衛軍の一員としては、向こう三軒両隣からくるエアコンの排熱と戦わなければいけない。


ああ、干からびちまう。
悪循環よのう。


気温の比較 気象庁
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php
posted by ta meta ta at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月20日

流金を飼いたい

夏の室内の水槽の管理は、どうしているのだろうか。

7、8、9月の、三ヶ月だけのことではあるが。

水槽用クーラーを部屋に置いておいても、私の場合、室温が38度を超えないとクーラーをつけない。

室内の魚に、私が合わせるようにしたらいいのか。

外出時が問題です。

みんな、どうしているのかなあ。

締め切って、室内のエアコンをつけておけば良いのか。
posted by ta meta ta at 23:29| Comment(4) | TrackBack(0) | 琉金 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

献血をした

ほぼ、2ヶ月に一回している。

針を刺す時に、けっこう痛かった。
先端を差し込んだ後に、ぐいっと上に持ち上げる感じで差し込まれる。

それから、いつも成分献血なのですが、血液の返還中が、けっこう痛く感じる。

そんでもって、最後、針を抜く時に、一気に抜いてくれるのですが、徐々に抜けれるのも嫌だなと思うのですが、すばやく、スッっと抜かれると、燃えるように痛い。

今回は、痛い献血でした。病院


あと、献血中、いつも、血圧が下がって、心拍数も下がって、体温も下がって、人より時間がかかるのですが、いつも、ホッカイロを握らせられたり、握り締めて力を入れるように言われたりしていましたが、今日は、温かい飲み物を持ってきてくれました。
 献血中に、看護婦さんに飲み物を持ってきてもらうなんて、献血をなんだと思っているのだ、と、他の人が飲んでいるのを見て、そう思っていましたが、なんてことはない、体温が下がりすぎて、時間がかかるので、温かい飲み物を飲んでいたのですね。
 4サイクル、490cc、血小板献血。
 検査も含めて1時間30分かかりました。

針の痛みを感じないようにと思い、気持ちを落ち着けて、冷静に、と思っていると、自然に、心拍数は下がるし、血圧も下がってしまうのです。結構こういうコントロールは得意です。手(チョキ)

 生ビールを持ってきてくれたら、一気に上昇するのですが、それは、ないな。ビール

満月献血ルームは、室温は低めに設定されています。
posted by ta meta ta at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする